お茶漬け

「じゃあみんな、お客さん用な!」


ゴールデンウイークやお盆、正月などに、じいちゃんばあちゃんと叔父さん、そしてわたしの家族とで焼き肉をするタイミングがある。なぜ焼き肉をするのかというと、おっちゃん(叔父さんのこと)が単に、“焼き肉がすきだから”ということだった気がする。わたしは、仕事のために近隣の県に住んでいるおっちゃんの家へは行ったことがない。

「昼過ぎに出たんやけど、◯◯道がばば混みで、結局下道で帰ってきましたわ」という会話を、わたしの父としてる。高速道路も新幹線も通っていないこの町とあの街とを車で行き来して、平然と今、ここにいるおっちゃん。車で連れて行ってもらうことが全ての小学生のわたしには、現実味のない、未知すぎる会話だった。


母に電話がかかってくる。

いつであれば予定がなくて、みんなで集まれるのか?という電話越しのやりとりで、何となく電話の相手がおっちゃんだと分かる。その後、ばあちゃんの方にも直接おっちゃんからの電話が入る。そして、ばあちゃんから号令がかかり、その日に合わせてばあちゃんの家に向かうのだった。煮物作りすぎたとか、◯◯さんからあんたら用にジュースもらったから帰りに寄りなよとかいう普段の日とは違い、「焼き肉食べるで!(=おっちゃんが帰ってくるで)」というはっきりとした約束のもとで集まる。だから、ふらっと立ち寄るのとは違うモチベーションで向かうことになる。


その日の昼ごはんを食べてからは、晩ごはんの焼き肉のことが頭によぎるようになる。昨日の夕方からポテトチップス(そういう日に限ってレアな梅味とか)が、キッチンのすぐ側の、よぐ目に入るところにあったりする。眺めてるだけやでと手に取っていても、「この後、焼き肉やからな」と父に声をかけられたりする。家族みんなが休みの日に、焼き肉の日は開かれる。そのため、家事だ習い事だと慌ただしくしている平日の夕方に、静かにパッケージの封を開けてつまみ出す、ポテチの気軽さは今日はないのだ。

そして、そういう風に声をかけられて当然だとも思ったりする。ポテチの封を開けてしまったら、「あといちまい…あといちまい…」と思いながらも食べてしまう。そして、そのまま夢中になって食べて続けていると、あっという間に「これくらいやったら、逆に、残す方が失礼やんな」という量になっている。最終的に、粉々になって、つまみにくくなったポテチが入る袋を、片手で斜め上に持ち上げて、そこから口に一気にかけ入れるのだった。一列に並び、銀色の道を勢いよく駆けて口を目指す。残さずに、綺麗に無事、食べ終えられるように注意するのだけれども、ゴミ箱に捨てるその道中に、立って片手でそれをするからなのか(大抵、もう一方の手は腰に当てている)、勢いづきすぎるからなのか、袋の凹凸に沿って、勢いよく滑ってくるポテチたちは、わたしの口の他に目や鼻、フローリングの床などと各方面へ散らばっていくのだった。そこまでが、ひとの目を盗んで食べるポテチのお約束な気がする。


昼ごはん以降、葛藤しながら、焼き肉に対するモチベーションを保って、生活する。

夕方までにはばあちゃんの家に行き、おっちゃんと一緒に、乗ったことのないいい椅子の車に乗せてもらって肉を買いに行ったり、その後、油が飛び散らないように、新聞紙を机や食器にかけたりして準備を行う。じいちゃんが、ガスコンロを奥の物置き棚から取り出してきて、火がつくか確認しているのを爆発せんかなぁと見ていると、ふと奥に入っていったばあちゃんから、「ガスもうないわ!」という声がする。「なんやな、もう!」と言いながら、もう一度、今度はじいちゃんとホームセンターまで軽トラで買いに走ったりする。そういう時でも、財布をがさごそ漁って、ばあちゃんは駐車場までポイントカードを渡しにくる。


やっと辿り着いた焼き肉の時間は、「タレ、一度に出しすぎや!」「マヨネーズかけすぎやろ!」「えっ、それに七味かけるん?」から始まり、「ちょっと!何枚も同じ肉、食べすぎとる!」とか「まだカルビ食べてない!」とか「これ育てとったのに!」などと細かい争いがあったり、「この辺の玉ねぎ、はよ食べんと真っ黒コゲになるで!」というような、野菜も食べなさいという声があったりで、気は休まることがない。

「はい、じゃあみんな!一旦、この辺のやつ取って!ほんで、ちょっと離れといて!」
という声があると、1人がプレートの穴に2箇所、割り箸を突っ込む。その間にもう1人が、厨房から水を入れたピッチャーを持ってきていて、プレートの下に水を入れ直したりする。

氷を入れまくりのグラス。
じいちゃんはお酒は飲まないが、じいちゃん用の、背は低いけれどもその分太い、黒のラインの入ったグラスに氷をなみなみ入れて、その上から蛇口をひねって井戸水を入れて、「溢れてしまったわ」と、厨房からすすりながら歩いて戻ってくる。

ばあちゃんは、「最近は、発泡酒ばっかりですわ」というわたしの父に、「ええの飲まなあかんで!身体に悪いで!」と、ここぞとばかりにキリンの瓶ビールを開けて、消えかけているキリンビールのマークが入っていた細長いグラスに自ら注いだり、父から注いでもらったりしながら飲んでいる。


みんな酔っ払ったり、お腹がいっぱいになったりして、次第に食べていた場所から、テレビのある茶の間にそろそろと移動していく。そしてそこでおっちゃんが、いいと思うテレビ番組を探して、それを一緒に見たり、「最近なんもおもろい番組やってへんなぁ」とか言いながら、テレビのリモコンを渡してくれて、みんなが見れそうなチャンネルを選んで、何となく見たりする。いつも見る、すきな番組じゃないから飽きるのも早くて、その後こっそりとゲームをしたりして、時間が経っていく。

みんなでごはんを食べた後の、さっきまでの熱量はどこへいったんやろな?という、少し静かで、落ち着きのある、まどろんだ時間もすきだ。



なんか、お腹減った気がする。

焼き肉、食べすぎて、普段より馬鹿になったわたしのお腹がそう言う。そういう時間帯に、おっちゃんが茶の間から立ち上がる。トイレちゃうんやなとトイレの位置とは真逆の、さっきまで食べていた方へ向かっていく。何やろな?と思いながら、わたしも、弟も一緒におっちゃんに次いで、厨房奥に向かっていく。基本的に、裸足でコンクリートのその床を歩くことは禁止されている。でも焼き肉の後は、そんなに怒られないことを知っている。なぜなら、肉の油や湿度でぬるぬるになった床は、焼き肉の後にばあちゃんに、濡れた雑巾で、拭き掃除をされているからだ。だから、母が「こら!」と怒ってきても、ばあちゃんが「拭き掃除してるから大丈夫や」と言ってくれる。

食べ切ったと思っていたけれども、厨房奥の炊飯器には、まだお米が残っていた。さっきの焼き肉の時は、炊き立てのお米を食べさせてくれていて、こっちの炊飯器のお米は今朝の残りだとばあちゃんが遠くから説明してくれる。

こんなタイミングにご飯食べるとか、そんなんありなん?と思いながら、母に食べてもいいのかを聞いてみる。さっきまで自分のお茶碗でお米を食べていたから、

「じゃあみんな、お客さん用な!」

なぜか再び食べることについてはなにも言われず、あまり触ったことのない奥の戸棚から、同じ柄のお茶碗を出して、渡される。普段使っているお茶碗よりも高さがあり、小学生が片手で持つのはギリギリである。


おっちゃんと焼き肉を食べる日は、いろいろと特別すぎるのだ。

お茶碗にごはんを少しよそい、「この量じゃ一袋ももったいないやろ」と、普段は言われるはずなのに、お茶漬けのもとを一丁前に、一人で一袋もふりかける。普段だったら、食べ始めたら場所の移動はあかんはずなのに、今日はそのお茶碗を持って、茶の間にいく。(そもそもお茶漬けは、冷やご飯の時でしかしてはいけなかった。)
急須に入れたお茶っぱの色が出た頃に、お茶をかける。「(お茶漬けのもとの中にある)緑のやつ辛い!」とか言いながら、ふやける前にとあられを早めに箸でつかもうと格闘しながら、お茶漬けを口にかけこむ。


「これは別腹やな」
焼き肉の熱気が醒めたころ。冷水機がぐわんぐわんと音をたてながら、冷気を送ってくれている。その涼しさを感じながら、静かにおっちゃんと一緒に黙々食べる、熱々のお茶漬けは、この上なく格別なのだ。

「拭き掃除して、換気もあんなにしたのに、まだ焼肉のにおいするなぁ」ばあちゃんは言った。

と、その周辺に纏わり付くモノたちへ

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