もも!もー!もも!

桃。

桃は高い。
でも桃は美味しい。

柔らかい分、りんごよりも皮を剥くのは大変だと思っている。


「このタッパー返すだけやから」と駐車場には停めずに、ばあちゃん家に立ち寄る日があった。
習いごとの習字で普段よりもしごかれて、もう空腹で、集中できんかった次元は通り過ぎたわ。買い物一緒に行くつもりやったけどな。終わるの遅すぎて、お母さん、済ませてしまったわ。

わたし習字帰り。母買い物帰り。
夏休み。日が暮れる頃。
ここでまったりしてたら、お父さん帰ってくるやろ。タッパー渡して、はよ帰らな。

対向車が来ることを恐れながら、じいちゃんに「ここ停めてたら、落ち着いて居れんやろ」と言われながら、車を家の前に横付けする。エンジンはかけたまま。

「電話くれたらよかったのに」
急に現れるイレギュラーさに、今日はなんも用意してないと、今日も朝から湿度が高くて、大忙しやったと用事を終えたところのばあちゃんは言う。
そして、ついつい込み入った話をし始めると、本当に肝心なところで対向車が来る。
「ほら、やっぱり来たやろ」とじいちゃんにちょっと怒られながら言われて、結局何かしらをばあちゃんからもらおうとしている。
横手から引っ張り出してくれた紙袋にまとめてもらって、両手に引っ提げて、
「ほんまに台風みたいやな」と言われながら、そそくさと家を出る。対向車にぺこりとお辞儀して、車に乗り込む。

「これ、こないだもらったんやったわ」
忘れていたものがあったということで、ばあちゃんが車の窓をノックする。
「もう今度でええ!」じいちゃんは、さっきよりもまあまあ怒っている。


桃。
助手席の窓から桃を受け取ったことがあった。


剥くのはりんごよりも柔らかくて、剥きにくい。タネもそのブカブカな容体の中に丸まると入っており、皮を剥いた後の桃の種は取り出しにくく、均等に切りにくい。
そんな桃なのに、お皿に載ってしまえば、あっという間。
冷やされた桃は口に入ると、じゅわっと消えていってしまう。
モモ味の飴食べてたら、周りに「モモの飴やろ」ってあんなにすぐバレるのに。
本物の桃は、口の中にじゅわっと入ると、ひと口、ふた口噛んでいる間に口からなくなってしまう。
熟れていれば余計に早い。
まだ完全に熟していなければ、口にすっぱさと喉にいがいがが残ったり、奥歯が普段よりもきゅっと擦れる音が不快だったりするのに。

夜ごはんの後、お風呂上がり。テレビでよそ見なんかしていたら、一瞬で一つの桃なんかなくなってしまう。二つでも無理だろう。
大皿に盛り付けては喧嘩のもと。小皿に取り分けておく必要がある。

そんな桃。
そんな桃の話がある。



こんな桃の話もある。

実家を出た。
わたしは、たまたま桃がよく採れる場所に住んで10年になる。

湿度の高い夜、仕事帰りの週末に、スーパーの駐車場からへろへろと車から降り、スーパーに入る。
すると、一気に肌に刺さる人工的な冷たい風と一緒に、果物の入り混じったにおいが入ってくる。コンビニではなく、スーパーならではだと思っている。そのにおいに懐かしいなぁと思い、加えて、いつの間にか、スーパーの存在を忘れていたなぁと思う。
夏。お中元やお盆の時期、スーパー入って正面に、堂々と、果物のカゴ盛りが置いてある。その中に桃も入っている。
その桃を通り過ぎ、そこから2つ向こうの地産地消コーナーの隅へ向かう。外と違って、ずっといると、このスーパーは寒い。寒いから、腕を組んだりさすったりしながら、現品限りの桃のパックを眺める。
食べ時ってどんなやつやっけ?これ高いなぁ。これここだけ熟れすぎてない?うわ、これいいと思ったのに虫も入ってる!とかあれこれみながら、ふぞろいの桃、2個入り1パックを買うのだった。

ひとり暮らしのアパートで、桃を食べる時、熱を出した時にばあちゃんの家で食べた桃をよく思い出す。

あの夏は、下の弟が産まれる年で、夏休み丸まるを、じいちゃんとばあちゃんの家で過ごすことになっていた。読書感想文を夏休みが始まってすぐに張り切って終わらせたのに、いつの間にやら、釣りやカニとり(わたしには関係のないけど)急な来客など、ゲームはないものの、誘惑の連続に、あっという間に宿題を終わらせる計画は狂っていった。取り返そうとするものの、気がつけば8月末。この土日しかない!というタイミングでの発熱だった。

わたしは、普段は昼間から使っていない、2階の畳の部屋で寝転がっていた。床の間と仏壇が側にある2階の部屋で、わたしは、熱が一時的に下がったタイミングで調子に乗ってしまう。解熱剤が効いているだけだ。
ゲームはない。暇すぎて、天井の木目で生き物をつくったり、板に沿ってあみだくじをしたりする。テレビもこの部屋にはない。暇すぎて、学校で練習していた、きれいなフォームでの側転をしたくなる。

どんどん音が立ってくると、ばあちゃんが「そんなことしてたらまた熱上がるんやから!」と様子を見に来る。
その片手には、いつも1階で目にするお盆。その上には、桃があった。

だいすきな桃を、弟もいないここで独り占めができたのだった。普通にうれしかった。その桃を、口に入れてひと噛みすると、ぐじゅわっと、甘くて冷たい汁が口に広がった。しかし喉にはしみた。痛かった。
また、今、甘やかされているけれども、手放しに暇をしているけれども、この熱が本当に下がりきってしまったら、宿題とかせんとあかんなぁとか思ったりもした。

桃を食べた後、やっぱり解熱剤のお陰だったのだと、熱が上がってくる。このくそ暑い夏に悪寒がする。薬を飲んで、再び眠る。

夕方。目が覚めた頃には、夕焼けが部屋に差し込んでくるが、もうその時間帯も終わるだろう。昼間眠る前よりも、身体はだるくない気がする。トイレから戻り、再び天井をみる。会ったことのないひいじいちゃんとひいばあちゃんの遺影が怖くなる時間帯。蛍光灯を付けた。お母さん、はよ帰ってこんかなぁと思った。




ミシマ社さんから、くどうれいん著の『桃を煮るひと』が6/9(金)に書店で先行発売された。
会社から帰宅後、発売日を思い出し、土曜日に閉店間際にすっ飛ばして本屋へ2軒行くものの、目当ての本は見当たらなかった。日曜日、わたしの中で6月恒例になっている本屋さん、紙片へ行く。なかった。家へ戻る最中にもう一軒、大型ショッピングモールへ寄ってみる。あった。買った。

まだ読み始めて半分もいってない。
けれども、もう、くーっとなっている。

よく今のわたしを見てくれている(と思っている)友だち2人が、「『わたしを空腹にしないほうがいい』(BOOKNERD)を読んでいたら、わたしを思い出した」と別々のタイミングで、個々に言ってくれたことがあった。存在は知っていたけれども、その時はしっくり来なくて買っていなかった。そこから約一年後くらいに、調子のいいタイミングで買って読んでみた。そんなわけないやん!と恐縮の塊だなぁと思った(でも単純に嬉しかったけど)。

くどうれいんさんの本は、絵本以外、全部買って読んだ。

世の中のどうしようもない理不尽さにはちゃんと怒っていた。でも、ちゃんと自炊しているから、料理の工程やその描写は具体的で明白だった。洒落た料理家にはなれないと言いながらも、わたしが使ったことのない調味料を使って、調理の工程を書いていた。
同い年だった。でも、友だちの存在がくっきりはっきり確かにあって、モテててもいた。
同じように、雪の多い地域が地元だった。でも、わたしは雪が光ることや踏むと音が出ること、場所によって味が違うことを忘れていた。

ミシマ社さん、すきな出版社さん。一人で知った本もあれば、教えてもらって買った本もたくさんある。最近本棚の整理をしたけれども、改めて見てみて、わたしの本棚には、ミシマ社さんの最後まで読み切れた本と、これから読みたいと買ったままの本がたくさんあった。

『わたしを空腹にしないほうがいい』は、悲しいときにもぱらぱらめくって読める、わたしにとってやさしい本だと思っている。

“食のエッセイ”だけれども、後半、ごはんが食べられなくなるエッセイも入っているところが、人間味があって、リアルだ。ごはんのことを切実に書き出したのに、食べれなくなったことも書いているところに、胸が苦しくなる。(申し訳ないけれども、)同じ人間だと、わたしも安心してしまった。食べれない中での、みずみずしいびわを冷蔵庫に母が用意してくれていて、強引ではない中で、それを食べる話が救いだった。

小さく怒っているところや、ままならずにぼうっと佇んでいるところ(勝手な解釈です)から、わたしもすこしだけ、このままいこうと立つ勇気が湧いてくるのだった。ポケットに入れられるサイズ、カバーがない感じも手に馴染んで、持ち運びやすくて、タイミングがくれば手に取っては読んでいる。

今回の本は、2作目の食エッセイ集だった。近くのお店でもミシマ社さんの本が買えるようになったので、うれしかった。知られるの嫌だけど、たくさんの人に読んでもらいたいなと思った。手触りが、皮の剥きにくい、あの桃々しさが、ちゃんとあった。みんなに見られるのか、くそー。

くどうれいんさんに、憧れのような、「えっ同世代でこんな文章、どうやったら生まれるん!あー!この冬の氷柱のこと、思い出したわ!逆に、なんでわたし忘れてるん!あほ!」みたいな迷惑すぎてビンタしたくなる謎の嫉妬をし始めてから(しかもモテる)、本は全部読みたいし、繰り返し読みたいと思っている。でも、Instagramはフォローを外したりもした(じぶん、ほんまにアホやん。なんで調子崩してんのや)。


これは、半年以上あたためてきた気持ちで、いつか、もっと穏やかに眺められるようになってから書こうと思っていた。でもやっぱり、この本を読んでほしいなぁと思ったのと、自分のことが積み重なって、書きたい気持ちが膨らんだので、普段以上にあっち行ったりこっち行ったりとっ散らかっているのを自覚しながら書いてみました。


最初の著書を買って読んだ時に、わたしもばあちゃんとのごはんのことを書きたいと思っていたけれども、もう書いてる人しっかりおるやん!と思いました。しかも、わたしがこんなに喜んでいて、望んでいるものが。どうやってわたしだけのものが書けるのだろうか?ということを考えていました。

noteをひらいたら、もっともっと食べものの文章は、わたしが知らないだけで溢れているんだろうなぁとも思っています。個人のブログと差別化しながら書きたいと思っていたけれども、現状、のみこまれてしまうような気持ちになり、noteの更新ができていない節があります。

突き詰めて考えると、ばあちゃんの家でもらった器のこと、忘れたくなくて書いておきたいことがあるという気持ちのものだけを集めて公開してみようという結論になりました。
「満月の夜、器をかざして思い出す」はそういう意味合いもあるもので、今回、これだけは広くTwitterでも公開してみようと思いました。

寄せたくはないから、ちゃんと五感を使ったり、思い出したりしながら、自分で感じたことを正直に書いていこうと思います。



もうすぐわたしより優先して、退職される方を見送ることになる。結婚しなくても、わたしの人生も、尊重して進ませてくれたらいいなぁと思っているけれども。

わたしは、“今”が“そのとき”ではないだけだと思いたい。
時がくれば、わたしもちゃんと、喧嘩別れじゃない方法で、嘘も使わずに、またばったりと会える関係性の中で、祝福される形で、きれいに辞められて、次へすすませてくれるものだ思いたい。
それまではじたばたと、今噛みしめられるものを、じりじりと噛みしめておこうではないか。

最近20年ぶりくらいに読んだ漫画「タッチ」。セリフがなくて、全く想像も、共感もできていなかった達也の気持ちが、こんなに入ってきて、胸が苦しくなるとは思わなかった。昔は、和也が魅力的に映っていたけれども、達也、めっちゃいいやつやん!なんで気が付かんかったんや。これを描き切れるあだち充さん、すごいなぁ。ものづくり、する側も受け取る側も、自分次第だなぁと思いました。すごいなぁ。

本も同様で、20年後に読んだら、別の視点が分かるのだろうか?
生き急がずに、本を手元に置いて過ごしたいと思う。本も映画も漫画も音楽も、受け取ることができる生活を守っておきたいと思います。

『桃を煮るひと』、43ページまでしか読んでないけれど、小学校の持ち物とか、◯◯セットとか、忘れていることをぼろぼろと思い出している。
ひとまずは、ゆっくり読み切りたいと思います。


と、その周辺に纏わり付くモノたちへ

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