「死んだものが望むのは仇打ではなく生きているものの幸福でござる」
『るろうに剣心』の漫画を“1日1巻”と心に決めて読み始めて、今日で何日目だろうか?
夜寝る前、今日やることを全て終えたところで、ベッドに横になりながら読み進めている。でも、急にたたみかけてくる戦闘シーンでは、こちらも力が入って横になってはいられない。
うつ伏せになって読み込んだり(翌日肩凝りがすごい)、いつの間にか片膝を立てて読んでいたりする(晴れの国も、夜はまだまだ冷えている)。内容は、テンポが良いのもあるけれども、「こいつ今、この瞬間にこれ言ってしまうんか」みたいな、人の細かい気持ちを他者が代弁していたり、そこから本人の気持ちをもう一回、コマの表情を見ながら戻って、考えたりしてしまっている。
そして、武道・武術だからなのか、日本古来の話だからなのか、まだはっきりと分からないが、この数年間、巡りめぐってみんなで読んできているような本や、考え方と通ずるセリフや行動が1箇所だけではなく、端々にある。本を読んでいて、「はっ!」としたときに付箋を付けているわたしだけれども、これはTSUTAYAでレンタルしたみんなの漫画。漫画で、本と同じ感覚で付箋をつけてしまいそうになることがなかったので、びっくりしている。わたしの今の流れにたまたましっくりきたのかなと思っている。最後まで読み終えて、部屋の本棚やその周辺の整理整頓ができたら、ちゃんと敬意を払って買って、繰り返し読み込みたいと思っている。これは本だ。
わたしにとって、地元を出て一人暮らしをする中では、アニメは映画を観る延長線にしかなく、表現の幅の違いなだけで、映像でしか楽しんでこなかった。
社会人になってから、自分のすきな時間を持ち、切り替えていくことが、社会人として細く長く生きていくためには必要だということが分かった。そして流行り病が蔓延していたこの数年間は、より濃く、その大切さが分かった気がする。自分のすきなものを知っていて、それで無心になれる時間があるのなら、その時間は何にも変えがたい、侵されない、無敵な時間だった。映画も音楽もすきだけれども、今現在の、わたしの1日の終わりには漫画を読むことが組み込まれている。
TSUTAYAの手垢のついた漫画を夢中になってめくっているとき、今のわたしは、映画や音楽よりも、あっという間にわたし自身に戻ることができることを体感としてこの数年、気がつくことが出来た。
『るろうに剣心』の漫画について気づいたことといえば、コマ割りがすごい!ということだ。
今ならスマホでも手軽に見ることはできるし、現にわたしは、チェンソーマンをスマホで追いかけている。毎週や隔週、水曜日以降に子どもと「見た?」「あれどういうことなん?やばない!」などと感想を言うために、職場に行っている節がある。今まで漫画の方が、小学生の頃図書館で借りつづけた『タッチ』や『名探偵コナン』みたいに、わたしにとっては、馴染むくらいにしか漫画の良さを見出していなかったように思う。どっちでもいいけど、現物の方が慣れてるよねくらいに。
『るろうに剣心』に関していうと、見開き1ページの最後のコマを終えたあと、次のページの1コマ目の構図のバランスがよくてストレスがなく、それに加えてめちゃくちゃにかっこいいのだ。「あんた、何様のつもりなん?」っていう気持ちは置いておいてほしくて、漫画を書くってそういうものなのかも知れないけれど、とにかく!本当に!構図がいいのだ。「うむ、これはすごいな」と息を呑むときや、ただただ「やば」「すげっ」とひとりで声にしていることがある。漫画を読んでいる人は知っている事実なだけで、わたしがこのタイミングに気づいただけかも知れない。でも、緊迫している中で、ページを勢いよくめくると、またひと展開あったり、はっとする場面だったりが多い気がする。ポストカードになっていたら、絶対に買っている。だからページを戻って、まためくってを繰り返して楽しんでいる。セリフや考え方もはっとさせてくれるから、読みたいけれども手を止めて考えていたりする。本みたいに、自分のテンポで進めることができるのもいいなと思っている。
あとは、漫画だと、絵がスピードに追いついていなくて、「あの技と、この技の違いがわからんままにただただページめくってしまってる!そしてそのまま闘い終わった!」(変なこと言ってるのはわかる)と思う時があったので、それをもう一度映像として、アニメで今、見直している。今まで、“アニメのみ”だったところを、“漫画→アニメ”という、違う流れでの楽しみかたを知ることができて、単純におもしろいなぁと思っている。
漫画を読むようになって、わたしの下の弟は、小学生の頃、たくさん家で留守番をしていた事実に、ふと気がついた。
わたしの地元は、1番近い自販機まで7〜8分の時間がかかり(今も!)、何をするにしても車が必要な場所にあった。そして、下の弟とは9つ歳が離れていたため、わたしや上の弟が学校や部活、何かしらの習い事などのとき、車で最寄駅や目的地までの送迎をしてもらう間の時間に、留守番をしていたのだ。
だから、わたしが今出逢ってしまった、めちゃくちゃ面白くて、言いまくりたいと思っているアニメを下の弟に言うと、大抵何かしらの返答がある(読み始めて序盤に言うと、大抵物語の根幹のようなネタバレをくらうことになる)。そして、「え、普通に昔、テレビでしてたで」と加えてくる。
わたしが産まれる前や、産まれるか産まれないかの瀬戸際の時期のアニメの中に、個人的に夢中になるものがこの数年たくさん見つかった。そんな時に、「少し上の人たちは、こんなアニメに常時触れていて、繰り返し見続けていて、完全に英才教育やん」と思っていたけれども、そういう話にこれが留まる訳ではなかった。弟にアニメの話をする時、嬉しさもあるけれども、最後に、確かに実家のリビングのこたつにひとりでこもっている弟が思い浮かぶ。
現在わたしは、17巻まで読み終えている。“1日1巻”だから、単純計算で17日前から読み始めているはずだけれども、週末仕事終わりにはご褒美で2巻とか読んでしまうし、週末じゃなくても気になりすぎて、つい「次の巻の1話を」って思ったら、止まらなくて読んでしまう。現在、旅先なので荷物の軽量化はさせておきたいのだけれども、やっぱり夜そわそわするので、泣く泣く18巻だけリュックサックに入れて、ちびちび読んでいる。(幸いにも18巻はちょうど物語の変わり目だから、“1日3話”とブレーキがかけられる。)
そして冒頭の言葉にもどる。
「死んだものが望むのは仇打ではなく生きているものの幸福でござる」
現在自分の企画として、満月の夜にひと月にひと記事、同じテーマで2年間書き続けようと決めて、準備をしている。今はもういない祖母のことについて書こうとして、今記事をためていっているところだ。
ばあちゃんが読んでも笑ってもらえるような、その周りの人や別の知らない人が読んでも懐かしがってもらえるような、思い出すことが出てくるような、そんな文章になっているか、いま一度、見返していきたい。文章だけではなく、行動も同じだと思う。命を粗末にしない、自分のことを大切にする。相手の考えもちがうかもしれないけれど、大切にする。そういう当たり前のことを思い出すことができた。
『るろうに剣心』の中には、いろんなセリフや場面があるけれども、1日の終わりに、そこを読んで「はっ!!」として、自分の言動が少し恥ずかしくなった日が確かにあった。だって、敵側も含めて全員何かしらの譲れない思いがあって、それをそれぞれの形で体現しているから。
それを踏まえると、やっぱりわたしが書いていく中で、自分の根幹の“大切なものは何なのか?”というところが問われると思う。いつ読み返しても古くならないよう、根本を見つめなおして、自分のいいと思うことを書いていきたい。
辺鄙なところに住んでいたし、新しいことを知る術も友だちも先輩もいなかったから、不器用だったから、泳ぐことか、勉強しかしてこなかった気がする。この流行り病のおかげで、今やっと、当時我慢していたことを取り戻しているかのように思う。そう思うと、今、身近にいる子どもたちから、昔やらなかったことを教えてもらい、わたしを取り戻しているのではないかとも思う。
0コメント