車窓からみたこと、思い出したこと

電車に揺られながら外を眺めるのがすきだ。


特急列車から見渡す限りの田んぼには水が張られていた。もうそんな時期なのかと思う。

それは、土に水を含ませて、柔らかくしたり均等にしたりする田植え前の準備をする時期のことで、そのことを「代掻き」と呼ぶのだと調べてから分かった。

そんなことよりもそもそも、わたしは電車に乗らないと、田んぼの変化にも気がつけなくなってしまったのだろうか?と愕然とした。

田んぼなんて、すぐアパートの目の前にもあったし、むしろ田んぼ道に沿って、車を走らせて日々、会社に行っているはずだ。

おかしい。めちゃくちゃおかしい。

光に反射してきらきら動いて光る水面や、逆さまに映った電柱や平べったい山たちに「わっ!すげぇ!めちゃきれいやん!」と思い、電池僅かなスマホを取り出して、「逃すかよ!」とカメラ音を気にしていないフリをして、写真を撮りまくってしまう。そんなわたし、めちゃくちゃに滑稽だ。

母がいたら、「何が珍しいん?そんな珍しいんか?」とわざわざ言ってくるだろう。笑ってくるだろう。


何でこんなことになっているのか考えてみると、そもそも現在、会社に出社時間ぎりぎりにしか出ていないことが原因として、あるのはある。でもそれだけではなく、わたしのアパートの前も、その周りも一帯として、田んぼが埋め立てられたんやったわという、凄く当たり前のことを思い出した。


このアパートに住み始めた10年前、確かに周りには田んぼばかりだった。梅雨の時期にはカエルの声がしっかりと聞こえてきていた。

地元にいた頃、夜眠れない時、時計の針の音が気になり始めると、そこからずっと眠れなかった。だから引っ越して、この町に出てくるにあたって、部屋に置く時計は、秒針が文字盤をすべるように動いていく時計でないといけなかった。連続秒針の時計を、わたしがいかに望んでいるかということを、母に熱弁しながら、馴染みのあるホームセンターを歩いた記憶がある。

しかしながらこの地に住むことになってから、連続秒針の上、気に入った雰囲気の時計が手に入ったにも関わらず、カエルの声が聞こえてきて、意識しだすとより大きくなって聞こえてくるようで、眠れないことがよくあった。全く大げさではなく、本当にそういうことがよくあった。

そういうときは、蒸し暑いので顔は出しつつ、布団を耳にかぶせて、横向きに寝ることが大切だったのだった。
それでも音が気になる時は、頭側に窓があるところから180°方向転換をして、窓に足を向けて寝るのだった。

田んぼとも、カエルとも、わたしは身近に暮らしてきたのだと思った。


移り住んだ10年前はそうだったけれども、でも忘れてるだけで、去年も田んぼのことを思い出してはしみじみしたり、田んぼを嫌になるほど感じることあったんちゃうんけ?なかったっけ?とふと思った。
確かに田んぼはアパートの周りにはなくなった。アパートさえも、たて壊されて、新しいアパートに入れ替わっていたりする。

分からないけれども、それでも梅雨の時期にカエルの声が聞こえたなら、わたし、めっちゃ耳よくなったんやなぁ、と、そう思いたい。



つい先日まで、1ヶ月以上、わたしのアパートが改装工事を行っていた。急にポストに白いタオル1枚と工事のお知らせの紙が入っていたかと思うと、数日後、まだまだ寝ている朝8時頃からカンカンカン、ガンガンガン、ガンガンガン!!!と鉄や重機を動かしたりする音がし始めたのだった。結局、うまく眠れず会社へ行き、帰宅した23時頃には、アパートを覆うようにして鉄骨の足場ができており、その上から白い布が被されていた。自分の帰る場所なのに、一瞬たしかに、びっくりするけど確かに、家に入るのをためらったのを記憶している。
営業中の近所の薬局がこの状態だった半年前、「営業中」という赤い太字の看板が出てても、「うそやろ?暗いやん。えっ、ほんまに?あっ、ほんまや。灯、確かについてるわ」って躊躇したあれと同じやんと思った。

工事中のアパートは、2箇所ある階段の1箇所が足場で使えなくなっていたため、普段使っていない階段を使いながら、朝の工事や人の気配にどきどきしながら(仕事が超絶繁忙期で、寝られなさすぎた時は、体力回復を優先してホテルに数日泊まったこともあった。)、過ごした1ヶ月と少しだった。

きれいにペンキで塗りなおされて、白い布も骨組みも外されて、現在、元どおりかつ、ちょっといい感じの外観になった。

しかしながらわたしは、「鉄骨、まだあるんちゃうん?」というように、この間までと同じように普段使っていない側の階段を上り下りして生活している。

なんでなんやろう?

見えない鉄骨を想像して、あるように振る舞ってしまっている。単純に、生活に順応したと言ってしまってもいいかもしれないけれども、そういう話ではなく、ずっと鉄骨があるイメージが拭えないのだ。

少しだけ大まわりして、アパートの自室の鍵を開けているわたしは、やっぱり滑稽な感じがしている。

はよそんなこと忘れてしまいたいわ!と思いつつ、首をかしげながら、大まわりして階段を利用している気がする。そしてそんな時にぼんやりと、「井の中の蛙大海を知らず」という言葉も思い出すのだった。


この言葉がこの場に合っているか分からないけれども、
思い込みも思い出しも、落ち着いて気がつく時間を、落ち着いて取り戻す時間を、これからも持ちつづけられますようにと今、旅先で思った。

そして、そのために日常の舵を自分自身でとっていきたいと思う。
タイミングによっては、現地点の日常に憂うことが多くなったりするけれども。しっかり!ちゃんと!とは言わないけれども、この町に来て10年も経ったあんたなんやから、うまくやるんやで!と、乗りこなし方を考える。

それだけではなく、非日常も、ご褒美に手にいれたい。
それは、新しいことを知ることも、少し前のかけがえのないことを思い出すことも、できるだろうから。流れ続ける日常のリズムから一回、終止符を打って、テンポを穏やかにする。

でも日常ありきの非日常。だから、日常の中の、ささやかな非日常にも気付いていきたい。

どれもその時々に濃度があって、感じ方次第だから、ぐるぐるまわっていくものなのだろう。
だから、泥くさくなっても、地に足つけて、自分に正直になって、“その地点”を言葉にしていきたいと思う。




と、その周辺に纏わり付くモノたちへ

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