昨日は夜ねるの遅かったのに、ぜんぜん早くに目が覚めた。まだお約束の時間のアラーム鳴らないので、そのまま二度寝を試みるも寝付けないままおなかが減った。アラームもなる。もう時間だ。もらったまんじゅうが美味しかった。近所にあると前々から聞いていたが、和菓子屋がある気配はない。どこぞにあるのだろうか、通り過ぎているのだろう。検索すればきっと出てくるだろうけども、なかなかそこまでいきつかない。今度帰省する時には買って帰りたい。そんな風に今頭をよぎったけれども、そういやまんじゅう食べたときにその包み紙を捨てていたわと思う。まだ心から買いに行きたいわけちゃうんやろなと思う。美容院へ行く。地元で切ってしまった以来だったので、少し気まずい。静かに、丁寧に、染め直してもらう。私よりも断然に、コロナのことに注意深く、なぞに雑に切られた(らしい)カットを入念に直してもらう。歩いて一つ目の角を曲がれば帰宅できる。
映画『ドライブ・マイ・カー』を観てきた。知り合いや、すきなお店の人、気になってこっそり推し続けている人たちからたくさん聞こえてきたのがこの映画だった。観に行ける場所が単館系の映画館くらいで、一日の上映本数も労力的にも、今回は無理やな、、と諦めていた。そんな中、アカデミー賞にノミネートされ、ポスター見る限り、雰囲気だけのやつかなぁ(失礼すぎる)と考えていたので、今回、そんなにすごいんや!と思ったのだった。最近、近くの大型ショッピングモールに併設された大きな映画館で上映が決まり、暇を持て余して観に行ったのだった。
時間としては、179分間あったことに気がついたのがチケット買ってからで、見初めて無理だなと思った瞬間から無理だろうなーと久しぶりの長さに恐れていたのだけれども、いやはや、話の流れというか、つくり込み方がぎっしり、しっかりしていて、目をひらいて夢中になっている間に終わってしまった。そして、終わった後の余韻が一日たってもまだ続いている。。これは、『孤狼の血2』以来で、このために、いろいろとがっかりしながらも試しに観てきたんだなぁと思った。(『大怪獣のあとしまつ』は予告編の文字のデザインも含めて作り方と見せ方のうまさにまんまと騙された。映画館出た後の、二人組の怒り方のほうが迫力あった。※ごめんなさい。わたし調べ的意見です)
とにかく、観終わった後の余韻がすごい。そのストーリー上の確固たる“答え”が見えたわけでもなく、ただただなんなのか分からない。放り出されて、宙に浮いているような、“浮遊感”があるのだ。どこから考え直したらいいのかも分からず、そもそも考えられず、ただただ「もう一回ゆっくりみよう」と思うのであった。
むだのない、ぎっしりとしたストーリーの組み方から、『スパイの妻』を思い出したのだが(終盤の蒼井優のはっはっはーと笑う演技がめちゃくちゃすきだ。)調べてみると、脚本のみではあるが、同監督が参加されていた。『寝ても覚めても』は全くピンとこなかったのだが、他にも作品見てみたいと思った。移動している車目線の道を写し続ける映像。終盤の長回しのセリフの後ろに車を走らせるエンジン音。淡々と車と共にながれていく時間とリズムに乗せられて、同じように物語が、主人公をとりまく核の部分へ迫っていった。
冒頭の、感情を入れず、抑揚のないままに話すストーリー。映像としても絵は動かず、暗いまま。女優さんの声のみで時間が進んでいく。こんな表現の仕方あったんだなぁと思う。同じように、その「声」を録音したカセットテープが車の中でも付けたら鳴りはじめる。こんな時間の進み方、感情描写の進め方あるんだなぁと思った。同じストーリーをぐるぐるとリピートされ続けるのだが、タイミングによって、聞こえるセリフの意味が違うように感じる。おそらくそれは、主人公にとってだけでなく、観ている側もだと思う。
主人公やその周りの人のストーリー、原作の村上春樹の作品、演劇など、いろんな物語が絡みあっているのが特徴的だ。そのバランスが計算づくめな感じがなくて自然で、めちゃくちゃにうまいと、本当に誰彼構わずに言いふらしたくなる次元だ。この作品の余韻としては、『孤狼の血2』のような“今の現状や感情を払いきってくれる”というものではなく、“真正面から、自分自身の身の支えになってくれる”もののように感じた。
作中の、「ワーニャ伯父さん」という戯曲が印象的だった。2回出てくるのだが、最後の場面は圧巻だった。主演の西島秀俊の助演として聴覚障がいのある人が手話を使って演じるのだが、この物語の終盤に差し掛かるまで、ずっと「声」を中心に進んで、いろんなストーリーが交差してきたところを、最後、「声」ではなく、態度や言葉を通して主人公の西島秀俊に渡しきったところだ。うまく言えないのだけれども、そのときの態度として、その人が渡していて、観ている側は、各々でその声やメッセージを受け取りにいけたのだと思う。「音」としてはなかったけれども、その静かな「音」をわたしも、わたし自身としてメッセージとして、受け取りにいけた。声だとしてもこの言葉は響いていると思う。ただ、多国籍のセリフの劇を作中で作ったり、こんな表現の仕方、世界があるんだと思った。古くからの戯曲、そういう世界、いろいろ勉強したいとも思った。
主人公の、相手を受け入れていくところ、自分の内側をじっくり受け入れていくところ、その過程をドライブをするなかで、いろんなものと一緒にみることができた。身の回りのものに興味あってこそのこと。
自分の身をさらすこと、開いていくこと、全く他人の相手と関わることはやっぱり難しい。傷つく。悲しくなる。なぜこんなことわざわざ書いてるんだ→自己嫌悪みたいな流れが、最近は客観的に「これ明らかにわたしがだめなやつやん」となるのだけれど(声高々と表明し続ける自信がないのは、まだ考える余地があると思っているからだよ。)、自分を認めなければなにも終わらないし、うまく収拾つかないのかなぁと思った。
うまく現実と、自分自身と、いろんなことに対して折り合いをつけて、受け入れていくっていうことが、なにを読んで、なにを見てってどんな方法をとるよりも、大事な気がした。車のリズムのように、淡々と、つけていきたい。そう思えたからなのかなんなのか、生きていく力が湧いてきた。
また観に行きたい。。
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