2021.11.14
母方の祖父母の家が無くなるということで、週末の予定を確認すると、もう今月は今日しかないやんとなり、無理矢理2日間の休みに帰ってきた。2週間ぶり。車で家の目の前まで入ろうとしたが、父が重機で枯れた紅葉の木から別の南国のような木を吊り上げて植え替えている最中だった。「最近よく転ける」のだとお盆や2週間前に聞いていた父方の祖父も杖を一応持参の上でその様子を見ていた。今年会った中では一番元気そうだった。祖父も再会したことの喜びはそんなに表情としても会話としてもなくなっており、さも当然のような顔で重機に目をやり、目を合わせて、手を挙げて、わたしは家の玄関を開けた。家のリビングの机には、先日、わたしが健康診断でその後の仕事開始時に差し支えるからと行けずじまいになった『軽食無料券 ※当日限り有効』が同じ位置に置かれたままであった。時間が止まっている。相変わらずの付けっぱなしのテレビからは、J1のサッカーの映像が流れている。はてさて誰が観ているのか。2日間しかない休みに帰省するのは、祖母の危篤や葬式関連くらいだと記憶しているので、今回も非常時である。なかなか帰省できない焦りでいつもより早くでた結果、夕方までに家に着いたのだが、そんなわたしの気持ちとは裏腹に、こちらの時間はいつも通りに流れているようであった。
今月末に、祖父母の家の、まずは“はなれ”が壊されるそう。“はなれの家”はわたしの母やおじが子どもの頃、家は食堂だったため、自分たちの部屋になっていたらしい。『勉強部屋』とよく親戚たちが集まったころの昔話では言っていたが、実際は『たまり場』であったといつも付け足して話す母の口調を思い出す。その家から高校はまあ近く、わたしも弟も通っていた母校だが、わたしは「嘘やろ」と思うけれども、始業前の鐘がなってから家を出てもなんとかなっていたらしい。朝のホームルームが始まる前、出欠を取る際に、友だちに声を変えて返事をしてもらっていたというので、それは実際には間に合ったとは言えないだろう。その調子で授業をサボって、家にたまり、母が美容師をしている友だちにパーマを当ててもらったり、体育で高校の周りを走るついでにしれっと家に帰って涼んでいたり、校門前で自転車をわざわざひっくり返したり、とりあえず「めちゃくちゃしていた」と言っていた。私たちのころとは時代も校風も全然違っている。
今回は、その“はなれの家”に母と一緒に向かった。今日家に父が重機で植え替えていた、南国風のアロエのデカイ版(葉はアロエよりも薄い)は、祖父母の家のものだ。必要な人に持って帰ってもらうようにしたそうで、2週間前よりもその“はなれ”は物が確かに減ったような気がしていた。その“はなれ”自体、わたしが中学、高校と電車待ちや母との待ち合わせ、習いごとと習いごとの間の間に使っていたのは、食堂であったもう一つの家だったので、わたしが物事ついた頃には実際にはそこまで使われていなかった。祖父の車庫や道具置き場、誰かが来た時に使う車庫としての役割が中心で、あとは物置きや、庭に祖母が育てていた木や花たちが植えてあったくらいであった。
下の弟が産まれる前の夏休みの滞在中、そのあまり使われてないその家の中で、祖母が庭の手入れをする間に、ついでにとそこで上の弟と宿題をした記憶がある。すぐに飽きて、祖父とダイヤル式のテレビをいじって、テレビを横になって観た。日がもう一つの家よりも断然入るので、ここで布団を干したいだの(多分わざわざ持ってきて、干していた)、電気を付けんでも明るいだの、でもこの家はすでにその寝転がった畳の床が沈んでいたりしていて、もうあかんなという話の流れがオチだった。もう使っていない台所の床に、なぜかその時持っていたビー玉を置いて、「ほら」と大きな声で得意げに転がっていくのを見たのだった。いつか漬けた梅干しを味見させてくれたが、もはや浸かりすぎていて辛かったりして、「もうじき出来るかなぁ」と祖母と話しながら、今年漬けたもう一つの家のカウンターの梅シロップに思いを馳せたりした。
今回その“はなれ”では、生活する上ではすでに家としての機能はなされておらず、家の中で過ごす機会もわたしはその小学校時の夏休み以降なかったので、これといって使いたいものは、わたしにはなかった。しかしながら、その家の外の祖父の車庫や仕事柄、なんでも修理したり、はたまた作ったりすることが多かったその道具置き場にはよく行く機会があった。車で送り迎えをしてもらう時、ご飯だと呼びに行く時、自転車のブレーキの音がおかしい時、ベルトの穴を空けてもらう時など、車庫兼道具置き場のその場所で視界に当たり前に入ってくる物たちは、わたしにとって使わないけれども、なんやかんやで離れがたい愛着あるものがたくさんだった。
祖父がいないのにそこに立ち寄ることは今までなかったが、まじまじとそこに久しぶりに行き、日がもう暮れ出した頃、カメラを片手に必死にシャッターを押していたら、母が言うにまさしく「じいちゃんのあそび場」であった。
木の切れ端で作ったであろう椅子、ネジ入れ、工具を吊すものや用途に分けた分類の棚はほとんど手作りで、車庫としての用途を邪魔させないそれらを限られたスペースでやりくりした手作りの収納力は圧巻であった。その木の柱には、なぜかマジックで祖母の勤め先や知り合いの家の電話番号が至るところに書かれていた。祖父らしき字からは、あたかもそこに祖父がいるようで、「なんでじいさんこんなことしたんやろ。ほんま、おもっしぇえわ」と祖母がよくやや怒りながら言っていたことに何となく気がづいてしまうような、ツッコミどころのある頑固な拘りも垣間見られたような気がした。帰省したらなぜか頻繁にくれるたくさんの卓上ライトや懐中電灯もまだ数えられるくらいはあった。最後に祖父にもらったのも、同じ型の懐中電灯だった。
そんな感じで、謎に多いハサミや、祖父がなにかを直すのに使っていたであろうペンチやドライバー数種類、釣りの浮き、「ひも入れ」と謎にマジックで書かれた救急箱、下書きが目につく木の切れ端で作ったであろう椅子、測量かなにかに使うのであろうメモリの入った太い定規らしきもの、錆びたメジャーなど、目についた使わないもの達を、母に「こんなもん持って帰ってどうするん?」「家狭いんやろ?」と言われ続け、ほんまに「そうやな」と思いながら、止められながらも、手当たり次第、かき集めるようにして持って帰ってきた。わたしも、使うとかそんなつもりで持って帰って来たわけではない。どうしようか分からないまま、アパートの自宅入った玄関や車のトランクに置きっぱなし、入れっぱなしで、かれこれ2週間が経ったのだった。
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