手鍋には沸騰したお湯が濃口醤油色に染まっている。その中に短冊切りした油揚げを入れ、しばらく待つ。その間に、斜めにネギを切る。油揚げで油まみれになった手やまな板をいちいち石鹸や洗剤で洗いながそうとするものなら、「味に洗剤がうつる」と止められる。こんなに言わんくてもええやんと、納得出来ず派手に怒られるランキングで言えば、カウンター真向かいのステンレスシンクでうがいすることが堂々の第一位で、その次にこの料理中に洗剤をつかうことがランクインする。手がぬるぬるのままコンロや棚の取手を触ると、そこまでぬるぬるになるやんと言うけれども、私の母も私と同じようにぎゃんぎゃん言われながら、結局、手を洗うことはやめない。
ネギが切れたらちょうどいい頃。うどんをほぐしながら鍋に入れて、弱火に。再びグツグツなったら火を止め、お湯をさっと通した器にそのうどんがそっと入れられる。ネギを付けて、「色合い悪いな」と、ピンクの背の板かまぼこを冷蔵庫から出し、さっさとスライスして、それも付ける。一連の、油揚げやネギを切るよう言われるけれども、結局いつの間にか祖母が全部やっていて、うどんが出来上がろうとしている最中、いつの間にか鍋を洗い出している祖母から最後に残ったうどんの盛り付けをするように言われながらも、最終的にはその盛り付けも、しっかりと祖母の手で直されている。
厨房からみるとカウンターの奥の大机をふきんで拭き、うどんやからとカウンターに置いてある割り箸入れから人数分とって、セッティングをする。セッティングの方がさせてもらえて、放っておいてもらえた気がする。箸の柄の部分は右側にくるようにするのはその時に習ったことだ。
祖母の作るきつねうどんは本当に格別に美味しい。母に祖母のように作ってと言い、作ってもらってもうどん一つ、これが全然味が違うのだ。祖母にはよく卵うどんも作ってもらっていた。気づいたのが、実家から出て以来、卵うどんを一度も口にしていないことだ。まあ、自分が作ろうとしないからか。母は、祖母の味との違いを「うどんスープの素」を入れたかどうかの違いだと言い、私は使わないと主張する。試しに入れて作ってもらったり、作る工程を思い出しながら同じように私も作ったことがあるが、それでも味は全然違ったのだった。おかしい。使っている水が違うからかと最終的にその話で大抵のことは終焉を迎える。
このきつねうどんが料理人である祖母の横で直々に見て、ちゃんと教わろうと聞いた唯一の料理だった。母は祖母のことを「楽しみながら料理している」と言う。いろいろ私も作ることを楽しめたらいいのだが、そこまでいかない。ある時、口の中を縫った後、まだグツグツしている一人鍋の鍋焼きうどんが出てきたことがあった。そういう時に限っての花の形に切ったにんじんと丸々の椎茸も添えてある。空腹なのだが、痛くて口が開かなくて、泣きながら食べられへんと言ったことがあった。その日は結局、家帰ってからプリンふた口だった記憶がある。
現役で専門学校へ行き、結局戻ってきて、また浪人生活を経て大学が決まった怒涛の一年間の中で、同じように祖母は余命宣告を受け、入退院を繰り返しながらコツコツと普段通りに生活するよう努めていた。受験生をさっさとやめたくて楽な方へ逃げて、結局浪人してしまった後ろめたさの中で、祖母と過ごす時間をその時期、誰よりも持てたことが振り返ってみてよかったと思えることの一つである。それがその一年の中で穏やかな時間の記憶としては大部分を占めているような気がする。
週末には必ず祖母の家へ行き、中学高校は電車待ちや習い事、塾までの空き時間に行き、そのちどり食堂で食べたものや過ごした時間は、わたし自身の今に記憶や拘りとして根付いているように思う。祖母の家の物を整理していて、器一つひとつに思い出すことがたくさんあった。何を入れたのか、何を感じて思ったのか、何を喋ったのか、ご飯を食べながら過ごしたその時間のことを、“器の記憶”として書き留めようと思う。
真っ先に持って帰ろうと思い出したのが、このうどんに使っていた器だった。この器は、時には親子丼や玉子丼を食べる際にも使い、またある時には、焼き肉の後に母の弟と一緒に食べるお茶漬けの際にも必ず使っていた。浪人を経て、再び家を出ることになった時に、この器を「一つ欲しい」と言ったが、拒否された。祖母はずっと料理人だった。
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