雨があがって、もうすぐ暗くなることが嘘のような18時半を過ぎた頃。空はまだハワイアンなほどのブルーで、胸をひらくように息を吸って吐く。私の休日、私の活動、なんで今からなんやとその時昼間にぐだぐだしていたことを半分後悔しながら、外へ一歩二歩と巻き返すように駆け足で進み始める。
今日は、もわっとしたべっとりした空気を纏いながら、雨のあとの青々とした主張をする木のにおいを感じながら、湿った土をサンダルで踏みしめながら車へ向かった。
雨が降っている音を感じながら、エアコンで冷えた薄暗い部屋でごろごろなにもしない休日は好きだが、休日だからと時間も見ずにだらだらと、しかし思う通りのままに全部準備してから、外に飛び出す瞬間も好きである。
天気を味わえるかどうかはその時の心持ち次第。休日を楽しく満喫できるかもその時の心持ち次第。ゆらゆらと、揺れ動きまくる私自身をうまく乗りこなすことは、特にこの2年ほど本当に大変だなぁと感じ尽している。
クルミド出版さんから出ている、古川誠さんの『りんどう珈琲』を読み終えた。実は、4年ほど前、大学生だった私は、尾道の紙片でこの本の存在を知った。ぱらぱらめくったが、当時の私にはあまりピンと来なかった記憶がある。その後、大学を卒業し、仕事をはじめたり辞めたり、なんやかんやを経て、いつの間にか周りの仲間の方たちと一緒に本を読めるようになった。古川さんが書かれた、センジュ出版さんの『ハイツひなげし』も、1個目の仕事の確か佳境な時期に読んだのだが、それ以降、何度も読み返している本である。この本は心がぼろぼろになった時、あたたかく包んでくれるもので、帯には『ひとはよわくて、そしてやさしい』という一文が添えられている。表に出ることがないような小さなことたちを抱えたアパートの住人たちが、小田島さんとのやり取りを通して、少しだけ心の風通しがよくなったような、自分自身のみているいつもの景色が少しだけ色鮮やかに映り出したような、そんな描写が丁寧に書かれていて、読んでいる中で、ずっとそこに置いてあったよというような、ごく自然に出会って、心に浸透していく感覚を受ける。小田島さんからかけられた言葉で、心がすっと落ち着く、胸のあたりがじーんとして、寝ていないのに寝ているような穏やかさがかえってくるように思えた。
思えば、古川さんが入って下さった、周りの仲間の方たちと行ったオンラインの『ハイツひなげし』の読書会の日も、ぼろぼろになった帰りの夜の出来事だった。
仕事はいつも通り、終わる頃には元気は残っていなくて、その日は仕事上で、身近な人が妊娠したという話を受けた直後だった。嬉しい反面、どことなく全力で祝福の言葉を直接に伝えられないまま、その日はこれからの仕事の調整や自分自身に置き換えてみての心の落ち着く置き場に困って、整理できないまま、ほろほろ泣きながら運転しての読書会だった。案の定、よくあることだが、ぼろぼろ泣きながら、本の感想なのか今日の感想なのか、初対面で古川さんによく分からないままお伝えしてしまった。言いたいことはなんだったのか分からない日だったけれども、そういう言葉にできない日に、そっと自然にはじめからここに存在していましたよというように、寄り添ってくれる、護ってくれる本だと思っている。本というより、最近はそれは、小田島さんであり、古川さんなのかなぁと勝手に身近に感じている。
「『結婚するから、今の生活サイクルだと無理です』って伝えたらしいよ」という話をこれまた仕事で身近に、それでもこれはまた別の人の話で聞いた。『りんどう珈琲』を読んでいる最中だった。それを聞く前日、これは自分が悪いのだけれども、仕事で自分史上最もやらかしており、大々的に謝罪を多方面に一日中行っていた。今の関係性的にこれをしないといけないのかなと他の方法を取りたかったなと思いながら、やらかしているからそういう立場ではないので、会社の方針に従った。ごはんは分かりやすく上手く食べれず、ぼろぼろになっている中、休日出勤で聞いた話だった。
『ハイツひなげし』よりも、個人的には、深く、扱っている題材だからか、抱えている一人ひとりのものや出来事はずっしりとした印象だった。小田島さんのように、『りんどう珈琲』にはマスターという存在がおり、アルバイトの柊に対して、音楽や言葉は少ないけれども確かな言葉や態度を渡していたように感じた。悪いことが起こる予感がしない場所、そこにい続けて見送り続けること、暗闇だからこそ繋げる手があるということ、待ち続けること、そのままで大切にされているということ、何かの出来事が起こってそれに対しての効果的面な行動や言葉を力強く出したというものではなくて、それぞれの出来事の隙間すきまにすっと自然とはみ出た言葉が活きいきと現れ、心に響いたような印象を受けた。わたしはわたしなのだからと、自分で選んで今があることを思い出したり、不器用で面倒が過ぎる自分自身や、周りからしたら取るに足らないような喜びや言うことのできない悲しみをひっくるめてわたしだと思えた。自然に、アクシデント以外で、不器用からくる消化できない悲しみのようなものがすんなりと私であるが故のものだと、ありがたく思えた。
祖母が亡くなった7年ほど前、いつか死ぬんだと感じて、思ったことは自分の思い通りにやってきたつもりだ。それは今のこういうご時世の中でも、貫いてきている。大切な人もいる。それでも、私の貫いてきたものとは違う考え方の中で生きてきていて、このご時世で、自分で動かせる範囲外のことが増えてきていて、じわじわとそういう時間に身を置くことが継続されてきている。そんな中でわたしが改めて思ったことは、自分自身が日々、愉快に過ごすこと、心穏やかに、安心できる時間を自分で自分として過ごすことだった。
周りの仲間の方たちのおかげで、本に出会う機会が増え、音楽も、映画も、絵も出会う機会が増えた。思ったことを話し合える時間や日常を一緒に過ごせる時間がたくさん増えた。ハナレグミは知っていたが、エリッククラプトン、レッチリ、ボブディラン、サニーデイサービス、ノラジョーンズは、社会人になって揉まれている中で、仲間の方たちに教えてもらって聞いていた。映画のシャイニングも、アニメのエヴァもドラゴンボールも、こんな社会の中で、四六時中夢中になれることがあるとは思っていなかった。歳をとることが単なる悲しみから、愉しさも入り混じっているように感じるとは思ってもみなかった。
この本を通して、心が穏やかになることができて、また新しく音楽を知れて、待つことこそが大切だと知れた。不器用なやり方でここまで流されてきて結局翻弄されている自分自身が、自分自身としていられてよかったと思えた。「芸術は孤独があるから知っていけるもの」と最近聞いた。結局のところ、今大事にしている人やものを、大事だと思って、大切にしていたらいいのだと思った。
個人的に『ハイツひなげし』は常に寄り添ってくれていて、『りんどう珈琲』は今の自分から五歩くらい先までの範囲を護ってくれているような御守りだと思った。
目の前のことに目をまわしながら、どっちつかずの自分でいたことに乾杯じゃ!
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