ページを開く時は、みなひとり  『読むことの風』を読んで

小学校の校庭の端っこ、校舎の玄関から出て、校庭に入ったところから対角線上の一番遠いところに“太陽の丘”という場所があった。

なんの遊具よりも校庭の中で一番高い場所で、かくれんぼをすればそこから離れ、たかおにをすれば真っ先にそこへ行く、というように辺りを一望できる場所だった。坂のように斜めになった太陽の丘は、名前の通り、子どものころ、太陽に一番近い場所であり、そこに行けば何事でも解決できるほどの無敵な場所であった。運動会、観客が多くて見えない時、花火が家から見えない時、とにかく真っ先に出てくるのは「太陽の丘に行けばいいやん」という言葉で、得意げに言い、親を引っ張っていった。


海沿いの歩道が舗装されて、歩きやすくなった。歩道を歩き、途切れた先に山があるのだが、その山の側の、人だけが通れる石ころだらけの道は、保育園のころ、園長先生と一緒にアケビを取りに行っていた。蔓が丈夫で、先生に取ってもらい、一人ひとり食べた。熟したアケビは甘い。下を見れば、蛇イチゴ。「蛇イチゴ、食べたら食中毒になるで」というのがみんなの口ぐせで、野イチゴを見つけて食べていた。秋には栗が落ちていて、恐る恐るな親の前、先陣きって、その細い道を歩き、いつものあの場所で、栗を見つけては、靴で栗を剥いて、家に持って帰った。


神社の近く、ひんやりした山に沿った道を歩けば、どんぐりやシイの実。シイの実は、炒って食べると香ばしい。ご飯作っている母に渡して、「アンタまたとってきたん」と言われながら、ぽりぽり夕ごはん前に食べていた。どんぐりは食べたら「あほになるで」というのがお決まりで、どんぐりは帽子被ったものがそのままのものより嬉しくて、ぼてっとまるまるとしたどんぐりはつまようじを通してコマを作っては遊んでいた。宝もの入れに入れておくのだが、虫食いの幼虫が出てきていないかという恐れがいつも宝もの入れを確認する際の緊張感だった。そのため、持って帰るときは念入りに夕日にかざして、どんぐりが真っ赤に染まっているか、それとも暗くなっているかで選別していた。


家の近くには歩いて一キロくらいのところに商店があって、シルバーカーを押すひいおばあちゃんと一緒に行っては、みぞれかイチゴのかき氷を買ってもらったり、みかんのグミ、5円玉の形をしたチョコレートを買ってもらったりしていた。それ以外は、賞味期限切れが多いので、小学校の頃は注意していて、見つけては、家に帰って母に報告していた。そこの商店の歌を作って、賞味期限切れが多いことと、チョコレートを買うということを家で弟と歌ったりしていた。


土日になると、トンネル三つ越えたところ、母の実家のある町で、家の買い物をする。習い事にもその時行って、母の実家のばあちゃんの家で昼ごはんを食べたり、ひと息つく場所にしていた。中学も高校もその町にあって、部活帰りや塾の前、何かにつけてばあちゃんの家に行って、ご飯を食べるかひと息つくということを、大学に進学するまでずっと続けていた。


家の坂を降りたら、かたまって集落のようになっていて、右を行けば海、後ろは山、車が対向から来れば戸惑ういつもの道を左に行けば、家の前にそれぞれの獣避けの仕掛け付きの畑、広がる田んぼ、右を向き、一本道を突き当たるとこまで見れば、赤い屋根の保育園と小学校がある。右に行かずに、そのまま真っ直ぐ行けば、国道に出る。国道に出るまでの坂道、その左をみれば、家の田んぼがある。じいちゃんが田んぼの手入れをしていて、とりあえず、車の窓を開けて「おーーい」と大声で叫ぶ。国道のすぐ側、大型車も走ってうるさいのに、じいちゃんが振り返る。手を振って、聞こえたことにゲラゲラおかしくなりながら、運転中の母に「あんた、田舎の子やなぁ」「そんな大声、都会の子は出さんで」などと言われる。


保育園では、園長先生は海がすきやからと海によく行っていたのだが、その帰り、迎えに来た母と一緒に同じ海に行く。日中の太陽がさんさんと差していたさっきよりも、曇ってきていて、今にも雨が降りそうなとき。波も大波で、暗く濁り、荒くなってきている中、これが最後にと、テトラポットの向こうまで、弟と石を投げて、どちらが遠くまで投げられるかの競争をする。近くのテトラポットには、貝がへばりついていて、その貝の生き物がとりたくて爪で取ろうとする。母が車の鍵を使ってとる。コンクリートで固められた道の淵の低いところから上って、走れば、うみむしがささささーとどこかへ逃げていく。捕まえて持って帰れたことはない。そんなこんなのいつものことをしていて、いつの間にか雨が降ってきて、「ほら、お父さん帰ってくるから。ご飯の用意せんと」と急かされながら、渋々帰ることになる。


アサノタカオさんの随筆集『読むことの風』を尾道の音楽と本のお店の紙片で買ったままになっていた。ひと月ほど前、いつもお世話になっている、東京の読書のすすめの小川さんが紹介されていて、そういえば…と思い出して読みはじめた(こんな流れですみません。)。紙片で買えば、紙片のにおいがする、読書のすすめで買えば、読書のすすめのにおいは実際に行ったことがないので知らないけれども、そこのにおいであろうどの本も同じにおいがするのだが、紙片で買ったその本から、僅かにまだ紙片のにおいがする…!と安堵し、読み始めるのが本を読み始めるとき思わずしてしまうことだ。


この本を読んだら、行ったことがない場所であるけれども、一緒に行ったような気持ちになった。日本ではない、異国に、行ったことがないのに、その場に行っている気持ちになった。青々とした、生命体としてそのままの自然と、その地に住む人の言葉、仕草、出会ったこともない詩たちを側で感じた。その土地の風が、読みながらも細く、長く、確かに吹いていた。あとがきまで読み終えて、冒頭の、薄く儚い、紙質のすこし違う、丁寧に開かなければと思う青い紙を開いたところの詩にもう一度辿り着く。

本を読む夜、一人になり、ページを開くとき、自分ではないほかのもののまなざしを通して見て、感じることから、わたしたちのいる世界、わたしの身の回りのことに思いを巡らせる。いつの間にか忘れていた思い出、こんな今や忘れるしかなかった昔のことを思い出し、その時の自分が目一杯に感じていた、ちっぽけな世界とその周りのぬくもりをもう一度感じることができた。実家に帰ったら、お墓参りに行こうと思った。

この本をひっそりと読みながら、心なしかひっそりと心が少しだけ軽く、回復していた。

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