「ホースの水、さいしょはあったかいんやで」
順々に当てられて、でも答えられなくて、緊迫した時間が鐘のなる音と共に皆がゆっくり息を吐く。安堵の空気が流れ、礼をしたら、次の時間に遅れないようにと廊下に一斉に出で、バックを持って、走り出す。その間、ほんまに一式、ちゃんと入っとるかなと、手でさわって確認をする。体育館で上履きを脱いで、自分のやとすぐわかるように、もう一度置き直して、裸足でざらついたコンクリートを駆け足でかける。日陰から一転、体育館を過ぎればコンクリートあつすぎやん。網のドアで一瞬勢い止まって、ひねって開けて、階段おりて、ぎこちなくがたがたいう更衣室のドアを勢いよくあけて、埃っぽい、泥っぽい、はっきりしないこもった空気の中、砂利ついたコンクリート、端で打てば血が出そうなすのこに乗り、自分のバックで周りの空気を見ながら心地よい配置を取る。時間割がそりゃ早けばはやいほど、前もって下に着てきたやついる率は高いけど、ゴーグルかキャップかはたまたボタンのついたタオル忘れて、そりゃないわばかやろうとなったりする。前もっての事前準備、裏目に出るかなしさよ。
梅雨に入る前、水泳学習が始まるまでの一大イベント、最難関、保育園の後輩たちも含めて、近所中が見守る中、わたしたちのマラソン大会は開催される。学校の中だけならまだしも、顔見知りばかりのこの世の中で、人クラス10人そこらの順位決め。手を抜いても、抜かなくても、すぐ広まる。人伝いに聞く噂じゃなくて、その目で見るから(年2回)。その大会へ向けて、体育はひと月以上前から長距離の練習しだすやん。その前、体力テストで、持久走もシャトルランもしたとこやん。先生がお得ですよという雰囲気で、声すこし弾ませながら「試走」という。しそうってなんなんですかー?と、思っていたことを誰かが言ったら、そらもう口ではいわんけど絶望やん。親に天気のこと、めちゃくちゃ聞くようになるし、どれくらいの確率で雨なんかとかめっちゃ聞くことになるやん。大会までのカウントダウンしながら、それが終わればプールなんやと何度も思いながら、プール開きの日になる。でも、プールの授業になったとたん、めっちゃ梅雨入るやん。雷とかで1週間くらい伸びて、結局、あんまり入れんやつやん。いろんな苦しさを乗り越えたり、悲しさ抱え込んでいながら、この儚くて、貴重な、プールの時間がある。
カンカン照りでも、風は吹いてたりして、シャワー浴びるの冷たいやん。そのあと、消毒のにおいがする冷たい水風呂みたいのに寒い寒い言いながら、10秒数えて急いででるやん。準備体操して、さあさあ、いつも悲しいことばかりやけど、この時だけは指名されて、遠慮げに、お手本で泳ぐのはこの私。水に入ってしまえばこっちのもの。さっきまでの緊迫した時間や気を使う他人のことなんか全てすっとんで、現実じゃないところで自由に水に潜ったり進んだりする。水の中から水面みたら、反射してきれいなんやから。
永遠に続けばいい時間は一瞬でおわる。たまに、雨降り始めて、すぐ止めになることもあった。一瞬の無敵な時間は、儚く終わり、現実に戻る。更衣室へ戻るときにはもう、夢からさめて、湿気の多い、蒸し蒸しとした現実なんよな。
保育園の頃の、プール終わりに先生がかけてくれるホースの水。最初はあったかいけど、だんだん冷たくなってくるんよな。においは、プールの塩素とは違う、ホースのにおいなんよな。それを浴びるのが先か、目をぱちぱち洗うのが先か、誘導されるがまましていた記憶が残っている。あんなにあったかかったのに、今やプールから上がれば、太陽も雲に隠れ、歯をガタガタ言わせながら、プールサイドにかけたボタン付きのタオルに包まれて、同級生と唇が青紫やろとかどっちが青紫かとか言い合うやつやん。
新しいちゃぶ台7を読んだら、ホースの水を思い出した。休みの日、半袖で過ごして、そんなに外に出ようとして出てない気がする今年だけれども、いつのまにかひりひりしている腕に気がつき、梅雨っていう梅雨、まだそんなに感じてないぞ、天気に落胆したり、わかりやすく標的となる日まで心苦しくカウントダウンとかしてないなとか思いながらの今日だった。そして、今は、「分かりやすく」というよりも、「じわじわ」と何事もしているような感じがした。「じわじわ」と現在進行形で嬉しいときもあれば、寂しいときもある、いったりきたりを繰り返している感じだ。
自分を保つというか、なかったことになっている、いつの間にか忘れたことになったことを思い出すきっかけになった。今回の“ふれる、もれる、すくわれる”特集。本編で特にすきだったところが何箇所かあった。序盤の津村記久子さんの、「やらないこと、成就されないこともまた生きていることの貴い一部なのだ」、その後の益田ミリさんの、終電が過ぎた深夜の駅のホームが「ひっそり静かだ」という話。どちらも、輝かしさからはもれている類のものであると勝手に思った。誰に言うまでもなく、ひっそり感じたりしているもの。そういう、とりとめのないものが書かれていて、何かと皆が制限されている今だからなのか、そのしんみりとした、大々的からは「もれてしまった」話が心地よくて、ああそうだったこういうこともあったなと安心した。その「もれる」が何種類もちゃんと書き綴られていて、それがあって、表紙をめくった箇所の三島邦弘さんの言葉のように「すくわれる」があるのかもしれないなとそこに帰着した。
この間初めて、ジブリの「ホーホケキョとなりの山田くん」をみた。何気ない日常の中での家族のやりとりが描かれているのだが、これがしんみりする。なんとも言えない懐かしさと、せつなさが混じった感じだった。こたつに入って各々勝手に過ごしている中での誰か立ち上がったときの、あれがほしい!これがほしい!とか、初雪に一人だけはしゃいでいるところとか、桜をみた祖母の「あと何回みれるんやろ」とか、揉めた挙句結局、傘を家族でもって迎えに行くとか、大事な書類がないぞという電話とか、家の至る所に描かれているのれん、ストーブの上のやかん、新しく咲いた花などなど。間に挟まる歌も相まって、気がついたらぼろぼろ泣いてしまっていた。
思い返してみても大々的に話せることや発表できることはないけれども、これまでの自分の普通の日常が、今の自分を支えてくれていることに気がついた。
なんてことのない、もれてしまうようなことから、すくわれることしかないなと思った。
最後に、中盤の土井善晴さんの話のなかに印象的な文があった。「お腹が空けば、バナナ一本、りんご一個で済ませてもいいのです。それでもニ〜三日くらいで、そろそろ起きて、立ち上がってください。私が心配になります。そんなことも続けば生活も健康も崩れてしまいます」というところ。土井先生は、今回、わたしの中で結構熱苦しくなるくらい(いい意味で)、熱が入っているように感じて、わたしはこの文の、「私が心配になります」がこだまのように残っている。お母さんを通り越して、ばあちゃんや、近所のばあちゃんの言葉のように、お節介にきこえて、あいよあいよ〜はいはいはい〜〜と受け流したくなるけれど、いや普通にそうやなと、心の中で一人そううなづく感じとそっくりなように感じた。そうなんよ、日常の中で目の前のことに忙殺されて忘れとる自分を思い出して、素直に、正直に自分でいられるように、自分を大事にできるような、日常中でのできる選択をしていかななとばあちゃんに言われた後みたいに思った。そう、とりあえず、思った。
いろんな「もれたこと」を思い出して、「すくわれて」、それらに支えてもらっていることに気がついた。読後、思い出すことがたくさんあって、あたたかみが増した。そんな本だった。
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