身体が冷えると分かっていながらも、ここではコーヒーが飲みたくなる。翌日、胃がもたれると分かっていながらも、土曜日とか、待ちきれずに金曜日の仕事終わりにラーメンを食べに行ってしまう。明日は今日よりも早く起きないといけないと分かっていても、映画を一時停止できないし、みんなで集まっている場所からは追い出されるまで帰れたことはない。
ぎりぎりを生きている時間、その瞬間は格別に最高だと感じている。
祖父が亡くなった。余命宣告を受けて、その宣告から逆算してこれが最後かなと思い、年末にここぞとばかりに大荷物で帰ろうとしたが、怒られた。亡くなったときも、なんだかんだ、どうにかして帰れると思っていた。やんわりやめておいた方がいいのではと言われ、結局まだ帰れていない。全てを振り切ってでも帰っているのが私だと思っていたので、やんわり「ノー」と突き出されたとき、反抗せずになぜか、「考えてくださり、ありがとうございます」と言った自分自身に、反吐がでるほどに苛々して、軽蔑して、はらわたが煮えくりかえるほどに悔しくて、泣いた。いつの間にこんなに物わかりのいい人間風に装えるようになったんや。自分自身が死んだも同然。誰にも言わずにというか、言えずに、心の中で肉を何度も裏返すように裏も表もいったりきたりしながら、味わいつくしてきた。いつ帰るんかといったら、次はゴールデンウィークなんだと思うけれども、第4波が来るとかなんだかんだで止められたら、平然装って、色々と面倒で帰らないのだろうか。それとも、祖父が亡くなったということと、そこになりふり構わず全て捨てて帰ることをしなかった自分を思い出したりしたくないから帰らないのだろうか。
ぎりぎりを生きている瞬間。
日常を送る中で、明日のことで後先考えずに、自分がしたいからしているという時間を守ってきた。そんな中、大事な人を思う中で、私がこれをしたいと思ったそのこと、それを今しないと納得しないと思ったことを出来なかったことなんて、今までなかった。じんわりと対面する現実と、嘘っぽい自分の態度の間で後ろめたさを感じながら、なんとなくそのままずるずるやり過ごしてきている。正直にいられていないからなのか、自分を大切にできていないからなのか、他人の幸せは心から喜べてはいない。
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この本『つくるをひらく』は、今年、祖父が亡くなってからなんとなく読み始めたものだと思う。この本の著者であり、建築家の光嶋さんが、同じく自分自身の感覚をもとにして、ものをつくってきている方5人と対話を行い、ものをつくることに対する身体的感覚を、対談している相手との間で、自身の思考を積み重ねていった本のように思った。わたしにとって、文を書いたり、演劇したり、日々の生活の中での選択だったり、本や映画や音楽や旅などの楽しいと思うことだったりと色々と勝手にやってきた、取り合ってはもらえず、説明するには弱く、とるに足らないが、そうしたいからそうするとなんとなく選んできたものが肯定してもらえたような、勇気のでる本だった。でも、この本を一言で言語化するには難しい、何度も噛んで味わい尽くしていくことのできる、奥深い本のように感じた。
まず、題名の『つくるをひらく』、本屋さん「読書のすすめ」でお勧めされている紹介文、どちらをみても即買うことは決めた読みたい本だった。でも、本の表紙のカバーが苦しくて、カバーをめくっても苦しかった。じっくりと大事には、今のところ見られない感じだった。
読みながら、感覚的な部分を言語化してくれているところが沢山あり、ふせんも気がつけば沢山つけていた。しかしながら、なかなか言語化できず、まとまらずでいる。
そんな中で、いちばんハッとして、印象的だったのは、5章の対談後の光嶋さんの文。『自分の世界観や価値観に静的に閉じこもることなく、つねに動的に自己を更新するためには、新しいことにひらかれた自由な場所を自分のなかにつくり続けなければならない。その余白としての自由な場所で持続的に思考する時間を持つことで、想像の選択肢が増えていく。そのとき、外の世界と内の世界の境界線にいる自分の身体感覚を信頼するという至極当たり前なことに思い至った。安易にわかろうとしないで、自分のなかの「わからない」耐性を上げること。自分の感覚をひらくことで、余白がうまれて未知の世界との接触面が拡張する。目先のこともわからない不確実な世界でも、肺の奥まで深くきれいな空気を吸い込んで、心身を整えながら、ひらかれた身体がキャッチするシグナルに対してつねに想像的であれたら、毎日をゴキゲンに過ごすことができるのではないかと思っている』これがわたしにとって、お守りすぎるお守りのような文で、祈りのようで、ただ肯定してくれているのは分かるけど、こんなに抜粋してしまっているという時点で、まだまだ光嶋さんは先にいる、消化しきれない文だった。
わたしの中で一番ひらいて、ドーパミンでたなぁと思った、突き詰めていきたいなぁと思ったのは、いとうせいこうさんとの対談だった。
光嶋さんのドローイングから、『構築していく生きた線と破壊していく死んだ線の両方が見える』と言われていた。また、『ドローイングを描くという非言語的な営みを言語化したいと思っていると同時に、言葉に出来ないからこそ描いている』とも言われていた。表紙をみたときの苦しさは、引っ張られていきそうな恐怖で、描く人自身の内的なところが表出しているように感じたからなのか。求心力。葛藤。また、そんなドローイングを描く中での終止符は、サインを入れることで、『絵を描いているときには、無時間の中にいる』というところから、ドローイングをみる中で、どこにいるのか分からないような、マラソンで一本道を走っているけれども、進んでいないように感じるような、呆然とした、はっきりしないつかめなさというのが気持ち悪いのかも知れないとも思った。
また、いとうせいこうさんは、『編集者を経て、作家、クリエイターとして、活字・映像・音楽・テレビ・舞台など、さまざまな分野で活躍』とプロフィールには書かれており、一番よく分からないプロフィールだった(すみません)笑。一番、やべぇなと思ったし、憧れを持った。『対話的にいろんなことをやってみて、想像すること、創作することを続けるしかない』という一文から、プロフィールの肩書きは全て、いとうせいこうさんにとって地続きであり、自分のつくるという感覚を大切にして外に表出してきているからこその流れなのだと思った。そして、それを続けるために、必要なのは、『ハッピーであること。ゴキゲンであること』だった。ということは、自分自身を大切にすることであり、感受性を守ることでもあるのかなぁと思った。曖昧な中で考え続けることは、ただただ苦しい印象だったけれども、ゴキゲンでいることは苦しくなく、ポジティブだった。一人で潜るだけじゃなく、他者と交わることも『集団で突破することの面白さ』の中に出ていて、なんだか希望だなぁと思った。
曖昧さの中で泳いでいるというよりも、じたばた溺れている感覚でかれこれだいぶ年数経っているので、積み重ねる中でうまくバランスをとっていけるようになりたいな。当面は、「ゴキゲン」という言葉を浮きにして、流されすぎず、飲み込まれすぎずやっていきたいと思っている。今はパワーが弱くて、足踏みしている試したいことがもう目の前なので、季節とともに少しずつ開けて、明るくなってきていると思っているこの社会に対して、感じることを積み重ねていきたいな。
ほんまにこの本、読み応えあります〜
続いて、この本から知った、いとうせいこうさんの『想像ラジオ』読んでいます。。
あと、エヴァをテレビ版から見返して、連休終わりそうです。。これもまた発見ありますです。。
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