味噌汁と祈り

「そうや。こんな時、味噌汁作ればいいんやん!」

早朝出勤→一時帰宅→寝る→再び出勤な日が続いている。
変な時間に「寝坊した!」と寝ぼけて起きたりする。内臓が重く、衣服を着るのにも立ったままがしんどくて、ついリポビタンDとかもらいがちになったりする。

「コンビニもう飽きますよね」と話した後、そうか、スーパー行けばいいやんと、久しぶりに営業時間とわたしの生活リズムが噛み合ったスーパーへ行く。

自動ドアが開くと目に飛びこんでくるのは生の野菜たち。ここで採れたのだと、ラジオの録音されたテープから音声が流れている。その奥には惣菜コーナー。角を曲がれば、魚のコーナー。少し寒い。その次は、かまぼこや豆腐と加工したコーナー、パンやお菓子も陳列してある。焼き芋が焼いてあったり、花屋があったりもする。開店してすぐだけれども、どこから歩いてきたのか腰の曲がったおばあさんやエプロンつけたままの人、出勤前の隙間時間で駆け込んで来ましたよといわんばかりな人などがいて、たくさんすれ違った。すれ違いながら、食べ物や生活がかきまざっていくような想像をした。スーパーのにおいは今、まさに今を生きているものの集合体のようで、うまく言えないが、みずみずしい生活感が、近所のコンビニよりもあった。

帰宅して、冷蔵庫にずっとそこにあった味噌を手に取る。みんなで最近している料理教室の残りだ。

大根とにんじんを、狭いコンロの隅に場所を確保して無心ですりおろしたり、油揚げをこれくらいやったかなぁと切ったり、味噌入れすぎたりしながら、味噌汁を作った。パンとかヨーグルトとかすでにあった、できあがったものと一緒に、あべこべの組み合わせで食べた久しぶりの朝食だった。味噌汁を真っ先にすすったら、やっぱり濃すぎていて、でもほっとする味がした。にんじんのにおいや味噌のにおい、沸騰する音など、久しぶりだったし、一瞬でばあちゃんを思い出すことができた。父方の、今や老人ホームにいるばあちゃんが使っていた味噌だった。


ふつーに疲れているし、こんな生活いつまで続くんやと思っているし、こんな刻んだ睡眠なんでせなあかんのと思ってみじめな感じもするのだけれども、そんな中でわたし、自分で味噌汁作ったんやで!生きるために、労るために、作ったんやで!とちょっとだけ肯定できた気がする。人に見せる訳ではない、誰のためでもない、自分のための味噌汁をわたしが作りました。



「泣きながらご飯食べたことがある人は、生きていけます。」

今回は、悔しくて泣きながら、それでもご飯食べんとあかん時間やから、食べながら泣いてる訳じゃなかった。

ちょっと人の流れに逆行した心細い生活サイクルで、こんなこといつまでしてるんやろうと思いながら、でも自分で作ってみて、食べたら、安心して自分を肯定できたんやでっていうタイミングでこのセリフを思い出したのだった。わたしの中で、新しいタイミングだった。

野菜を洗う時、切るとき、煮るとき、そのタイミングで、へこたれそうやけども、よりよく生活できますようにと、わたしは逆行してやるんやと、それらの所作をする中で、祈った。祈るという感覚もわたしの中で新しかったけど、今までで一番しっくりきた。
コンロの熱気と換気扇から入ってくる空気から、季節の変わりを感じた。


「泣きながらご飯食べたことがある人は、生きていけます」とは、坂元裕二脚本のドラマ『カルテット』の中で出てきたセリフだ。

2017年、当時高校生だったわたしは、実家でタイムリーに観ていた。
『カルテット』という作品は、当時のわたしにとって、スカッとしない終わりだった。じりじり焦らさせながら、結局、全真相が判明する訳ではなく、じりじりしたまま終わった気がする。毎週ドラマを観た後に、続きが気になったり、なんであんな行動や言動をしたのかともやもやしてネットで検索し、いろんな人の考察を読み漁っていた。最終回の最後のシーンも色合いが確か雪とかで白いのだけど、純白ではなかった気がする。どよんとしたまま、どっちつかずのまま続いてきたのだから、最終回はパキッとはっきりするのだろうと思っていたけれども、全然そんなことはなかった。歯がゆいまま、置いてけぼりにされたようだった。

そして、「もう毎週考察しなくなるのかぁ」と心もとない気持ちにもなった。もやもやしながらも、来週の展開をふとした時に考えながら、1週間後を楽しみに日々をがんばって過ごせるドラマだったのだなぁと思った。

新しい感覚の衝撃を得たあと、坂元裕二という人をネットで検索すると『東京ラブストーリー』が枕詞のようについてきていた。
「そうか。おとんやおかんがよく言うやつか」と思った。有名な人なんやなぁと思った。他にも有名な作品を数々出していて、「みよう!」と意気込む前から、身近にあったことを知った。

じめじめした時に、そのドラマに出てくる明るい衣装や豪華な俳優陣たちと、それとは対照的に、わたしの中で歯切れ悪く、終わってしまった『カルテット』とそのセリフを思い出す。

味噌汁とセリフだけではない。
近頃のわたしのじめじめしている所以を挙げるとすると、

同年代や下の人たちがごりごりに出てきていて、焦ってしまったりしている。

やりたいことをやろうと意気込んだタイミングがあったけれども、そのタイミング以降、うまく進められていない。

日々の家事、仕事で、やりたいことをするところまでが長い。タスク多すぎる。そして睡眠浅いよね。

うまくいかんからとわたしのせいにする苦情あり。伝わってないというか、言葉は守りにも呪いにもなるんだなぁと思った。ずっとこの役割を続けたくないと思う。でも、昔のわたしのような人とも思えて、まだ答えが出ない。

そんな感じだ。


季節の変わり目。年度末。
今年は発進したとともに急ブレーキがかかった感じがしていて、自分の振る舞いに「これでええんか?」と日々細かくずきっとしている。後ろめたさを感じ続けている。

そして、日々出てくる生モノのような情報をうまく咀嚼したり、受け入れたり、祝福できたりできなくて、いろいろと批判的で悲観的になっている。

「またこの時期か」と思っている。前回のこのなんとも言えない絶望感、2年くらいまとわりついてたよな。しんどいなぁと思っている。

テレビで久しぶりにアメトーークを見始めてたまたまその感情を浄化できたりしたけど、そんなものはすぐにぶり返した。

「またここに戻ってきたのか」と、又吉の本や古川誠さんのF太郎通信が近くなってきている。
ああまたここなんかぁ。あらゆる情報がしんどくなる時期。

自分の機嫌をとったり、安心させたりして、穏やかに過ごしながら、結局はしっかり自分と話をする時間を取らないと、またずっと憂鬱をまといつづけるんだろうなぁと思っている。

そんな感じのじめじめ度で過ごしております。
そんな中で、味噌汁作って食べた時の、祈りという言葉のセリフの響き方が今までと違ったので、忘れないように書いてみました。


一つ一つに旗たてながら、安心して、そのままに進んでいきたいと思います。

そして、“対話”というキーワードがずっとしっくりきてなかったのだけれども、やっと本、読める!!とも思ってます。ずっと本棚に入ったままだ。やったぜ!


*「東京一年生」は、『カルテット』の吉岡里帆さんの演技の衝撃から、いろいろ調べて、知った曲です。吉岡里帆さんの下積みのエピソードを思い出しながら、大学生のときよくバスや電車で長い時間、移動していました。



と、その周辺に纏わり付くモノたちへ

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