祖母の時計とこの町の時計屋

メールボックスにはネットで買ったものから割り出されたであろう、あなたにおすすめですというメールがきている。


いつのまにかそのまま住みつづけているこの町にあるのだろうかと時計屋を探していた。ネットで探せば、よく知ってるショッピングモールの中の時計屋がヒットする。この町の移動タクシーが止まっている小さな横断歩道を渡り、入り口。自動ドアが開いて、中へ入ればパンのにおいに、隣はたい焼き。日々通っているのであろうお爺さんやお婆さん、子供を連れた親子が行き交っている。人、こんなにいたんだなぁと今日は日曜日であることに気がつく。そのまま進めばわかりやすく涼しくなって、食品売り場へ行き着く。分かりやすくラジオから繰り返し宣伝が聞こえている。何階だったかなと以前来た記憶を頼りにエスカレーターで2階まであがるも、そこは、テラテラと緑色のボードで簡単に作られた看板と佇まいの誰が使うのかフリースペースになっていた。すれ違うお爺さんやお婆さんがいて、吹き抜けの周りを一周。一階には牡丹色のサービスカウンターが見える。エレベーター前の構内地図を見つけ、スマホをつけ、検索したままだった時計屋のページが開く。時計屋の名前は地図にはなく、シールで上から貼られてあった。


そんなにこの町には時計屋がないのか。
大抵のことを先延ばしにしてしまう癖があるわたしであるが、今日はなぜか諦めることがなく、時計屋を見つけたくなっていた。
スマホを開き、検索画面を辿り、そのショッピングモール近くによく通る場所だけれども認識したことがない時計屋があることに気がつく。車を大通り、公的な駐車場へ止め、そこから住宅街の方へ歩く。細い道を2本ほど入り、また少し広い道に出て、よく通る葬儀屋を見つけ、地図ではその隣。あるであろう場所に向かう。緑色の布の屋根のある小さな建物だった気がしたが、その斜め向かい。日にやけた旗が2本。入り口は開けっぱなしになっていて、その中におじいさんが一人「いらっしゃいませ」と建物の調子からすると意外に明るい調子で声をかけられる。
「時計が直るようであれば直したいんです」ととりあえず保育園で使っていた巾着に入れた腕時計を4本お渡しすると両手で受け取ってくれた。「こちらへどうぞ」と別のショーケースの前の椅子まで案内され、座る。そこは、時計屋でもあり、眼鏡屋でもある場所だった。
「なかなか古いですね。いいじゃないですか」とおじいさんは軽やかな調子で微笑みながら言い、電池を入れて欲しいことを伝える。
「これとこれは電池で、これとこれはネジだね」と言われ、どれが使いたいのかと尋ねられる。4本も持ってきてしまったことにどことなく恥ずかしさもあり、「祖母に貰ったんです。使えるのであれば全部使いたくて」と付け加える。「どれが一番使いたいですか?」と言われ、よく分からないままとりあえず四角い、斜めに見ると色が若干変わり、別の模様になる時計を指差してみる。「では、これから動くか見ていきますね」と長年そこで修理されてるのであろう奥の椅子へ座り、手元のライトを付け、目に顕微鏡の筒からつけたようなレンズのようなものをはめて時計を見ていく。「古いですね。いいじゃないですか」とまた軽やかに言われ、カンカンとネジ式の時計を工具で開けていく。

あたたかな日がさしている昼下がり、人がぽつぽつ自転車で通るくらいの静かな通り、こんなところにあったんだなぁとそこに自分がいることの不思議さと、目の前に顕微鏡の筒のようなレンズで使い慣れていないわたしの腕時計を見てもらっていることのおかしさで、おじいさんの一挙一動に釘付けであった。壁には掛け時計、古いものもあれば今時のようなキャラクターの装飾のもの。額装されたこの地のものであろう写真が並んでいる。奥にはおばちゃんらしき方たちの談笑の声、犬が鳴いている声が聞こえる。

「おもしろいでしょ。こうやってレンズを変えて見るんですよ」と釘付けになっているわたしに気がついてか、おじいさんが言う。仕事がわかりやすく忙しく、普段はなかなか話すスイッチを入れられないわたしだったが、自然とそのレンズが不思議であることや時計の中を開けることの物珍しさを気がつけば話して、おじいさんの動作を立ち入って見ていた。作業机に無造作に、おじいさん本人には分かるように整理されているのであろう時計の説明書と共に、そのレンズを一つ、布で拭いて渡してくれた。「こういう風にして見てきたんよ」と言いながら、わたしも目に筒のようなレンズを付けて、説明書を見てみる。ひいおばあちゃんが新聞を読むのに使っていた大きな虫眼鏡のように、遠くを見ると景色も反転してぼやけて見えて、説明書を手元に近づけるとはっきりとしっかり見えた。そうこうしているうちに、ネジ式の時計は動くことがわかり、取り出した針を取り巻くゼンマイの造りや原理をネジを巻きながら説明してくれた。ネジを巻くことでゼンマイが動き、それが針を動かしている。1秒よりも短い単位で今も動いているその小さな世界に驚き、ただただ小さく感動していた。そうこうしているうちに動く腕時計になり、「じゃあ時計の時間見ておいてね」とおじいさんは次の時計に取り掛かってくれた。

そもそも、ネジ式の時計というものがあること自体、わたしはよくわかっていなかった。横についているひねるネジは、時間を合わせるものだから、触ってはいけないものだと思っていた。おじいさんが言うには、ネジ式の時計が動き続けるのは1日と少しくらいとのこと。1日1度とかネジを回し、時間を確認し、使うものらしい。電池さえ入れれば、気にすることなく動き続けるものだと思っていたこともあり、わざわざ時計を使うためにネジを巻きつづけたり、別のもので時間を確認して合わせたりしないといけないその手間が不思議で、そういう時期が当たり前だったことに驚いた。そして、手入れをして、ネジを巻きさえすれば、ずっと使えて、こうして年を経ても動いていることがうれしかった。祖母もこうやって使っていたんだなぁとしみじみした。


電池を入れる時計は、「どこからでも時計は開くんじゃないんですよ」と形の違う開けるためのヘラみたいな工具を何個か使って開けてくれた。開けたら「あら」と一段と大きな声で言い、取り出した電池をわたしが座るショーケースのところに持ってきてくれた。「見てみて」と筒のレンズで促され、電池を見てみると電池は錆びていた。長年使ってないと錆びるらしいので、使わないときは取っておいた方がいいらしい。電池を入れるところの錆をハケのようなものでとったりしながら、新しい電池を入れて、動くか見てくれる。「よし」と動くことを確認して、電池にマジックでいつ使い出したか、日付をいれて、元の時計の状態に戻してくれる。

合間に、壁掛け時計一つとっても全ての部品に分解できるのだと、一枚の写真を見せてくれた。穏やかに話し、筒のレンズをつけたと思えば、目の前で、時計を次々と様々な工具を使い分けて分解し、直してくれるその職人の様子は、あたたかみのある静かさのように感じた。4本目の時計は錆具合から難しいかもと言われていたものの、工程をただじっと見るわたしの方をみて、微笑みながら手でオッケーサインをしてくれた。ジブリにでてくるような穏やかな、こんなオッケーサインをわたしは初めて見た。
祖母からもらった腕時計は4本とも動くようになった。


ある時祖母が言っていた、「もうわたしの手もこんなにシワシワになって、何してもみずぼらしいし、もうこれもこれも昔はよう使っとったけどなぁ。もう使わへんから、使うんやったらもっていきな」という言葉。その当時は、わたしも当時中学生とかで時計なんて使わない時期で、唯一使う受験では、時間が狂ったらただただ致命傷だった。そして、そもそも祖母の大事なものだから、祖母のもののままで手元に置いておいて欲しいと思っていた。



祖母も亡くなって、祖父も亡くなって、その家は老朽化ということで、もうすぐで無くなってしまう。
今その家を使っているおじは、欲しいものは持っていっていいと言ってくれているので、その時計も家のガラスケースから持って帰ってきていた。


思い出す祖母の動作と話、探さないと気が付かなかった身近な時計屋さんのおじいさん。その時計屋のおじいさんの周りに流れている時間や、空気感、無理だとお手上げ状態のものを想像を越えて簡単なような所作で穏やかに直してくれるその職人の姿は、祖父母からの延長線上、時間差で繋いでもらった贈り物のように感じた。この時計屋がある限り、わたしは時計をここに持っていくのだろうと確信した。そしてものづくりというものに違いはあれど、わたしも穏やかに静かなものづくりをしたいと思った。


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わたしが書き留めていることの中心は、忘れたくないからという動機からきているのかなと思っています。書く中で気づいたことは、地元を離れる前のことが大半で、その中で、祖父母の存在が大きく、一緒に過ごした日常のふとした場面や言動を思い出すと忘れたくなくて書きためているように思いました。書く中で、祖父母は亡くなったけれども、わたしが生活しているなかで、祖父母の存在はまだまだ確かに生きているという感覚になっています。もうすぐ祖父母宅は無くなり、物理的にその場で過ごすことは無くなるのですが、先日久しぶりに祖父母の家に行った際、その家の「物」とともに思い出すことはたくさんありました。「事」とともに思い出すことはこれからも私が生きている限りできるので、限られた時間の中ですが、物を手元における範囲内、その場へ行ける労力内で、「物」とともに思い出し、書き綴り、整理していこうと今のところ思っています。


と、その周辺に纏わり付くモノたちへ

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