窓側の、外が見える場所に座る。地元の生活圏内にできたのは高校生の頃。もっと前から車で1時間くらい遠出したとき、なんとなく母親とだったり、家族でだったりそこへ行く。
木目調の空間で、赤いソファが並んでいる。ゆったりとした時間。マスクを外し、靴を脱いで体育座りしたいところをぐっとこらえながら、木の匂いを胸一杯にすいこみ、安心する。ある人に言えば、喫茶店に行くから、全然行ったことがないと言うが、わたしはこんなコメダ珈琲店ですごす時間がすきで、車で走ることに緊張がなくなった僅かに拡張された場所まで、ちょいちょい車で走らせて行く。
外の冷気がまだ身体に堪える窓際の席。それでも、大きな通りに面したそのコメダで、行き交う車が走る音を聞きながら、側にあるお店の電気が消えて少しずつ暗くなっていくのを感じながらだらだら座りつづけている。
親しいと思っていた、相談もしてくれるし、気にかけていた生徒がわたしのいる場所を去ることになった。成績をみればこれからだし、受験までの期間を考えても、まだこれからだし、とにかくまだなにも始まっていないと思っていたけれども、そういう訳にはいかなかった。確かにあの子がもがいていたり、頑張ろうとしていたりしたのも見てきていたし、こちらに言葉を選んで相談してきたこともつい最近もあったけれども、必要なときに必要な態度や言葉や問いを渡したり、届けられてはいなかった。というよりも、常日頃の目の前に必死で、そこに充てられる、目を向けられる時間と気力が限られていたのが事実。
よく、思う。思ってもないことを、言わなければならなくて、そういう態度をとらないといけなくて、心とは裏腹にとってきたけれども、いつの間にかその言葉や態度をとること自体がなにも考えずで、楽だと思ってしまい、そっちをとること自体に抵抗がなくなってきてしまっていることを。慣れなのか、それでいいのか。マーブル状で、いいも悪いもなくて。自分自身を許してしまう。こんなことでいいのか。
学生の頃、理解に苦しむ考え方や教え方をしてくる人がいたけれども、友達は「それでも、あの人にも生活がある」と言っていたことを思い出した。みんな生きているからと、正解はないのだと、それぞれが思うように動いていけばいいのかなとか思いながら、今はその子が自分の思ったように選択したことを拍手して、寂しいけれども見送りたい。
そんなときに、それでもわたしはまだ引っかかって、納得しないから。バレンタインのお返しだと本を贈る。センジュ出版の『ハイツひなげし』。この本を通して、その子のこれからを後押ししたい。あの子にとって、塾とは、勉強するとは、今は“成績をアップさせて、いい高校に入る”ことなのかもしれない。
この本全編を通して出てくる小田島さんは、優しい。一遍一遍に出てくる、ひなげしに住む住人たちをあたたかく包み込む。いつもよく知らないバンドのTシャツを着ていて、たまたま大量にもらったじゃがいもで、見よう見まねに肉じゃがをつくり、それを食べた住人と同じように、わたしもみぞおちの奥の方、心の奥の方がぎゅっとあったかくなる。武装して、強く振る舞いつづけるけれども奥底の、リトルなわたしを掬いとる。救われる。泣ける。“わたしたちは自分が思っているよりも、ずっと自由だと思いますよ”という言葉。一人ひとりの弱さに光を当てて、それこそが自分らしいのだよと、今のその自分をぎゅっと抱きしめてあげたくなる。「ひとはよわくて、そしてやさしい。」という帯はこの本を思い出すときに思い出すまさにお守りのような言葉だ。
あの子にとって、今したいことはたくさんあって、挑戦して頑張っている。もがいていることも知っている。それじゃないなと思いながら矛盾して伝えてしまったことがありすぎるので、言いたいことは言わずに、この本を贈りたいなと思います。反省。。
もう光っているのは、コンビニの看板くらいですね。
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