きれいという日本人の美意識 『料理と利他』を読んで

土井さんの人柄がにじみでた優しさと、中島さんの歴史的時間軸や人物、また世界と対比してみたときの日本や現代の状況がわかる本でした。感覚的なところと、客観的事実からなる論理的なところが合わさって、面白く、気持ちよく、読みやすかったです。

この本を読みながら、思い出したのは祖母の料理についてです。土井さんの話の中で、「きれい」というキーワードが出てきました。週末連れて行かれる母方の実家で、よく祖母と買い物に行っていました。魚をみて、鱗や切り目がきれいかどうか、顔つきはどうかを、気になる魚の発泡スチロールを持って、宝石みたいに、遠くにかざしたり近くにもってきたりをして選んでいました。季節が変わって今年初物や、まだ動いていたりするもの、どこで獲れたかも気にしていましたが、きれいかどうかで選んでいる姿が印象的でした。なんかそれええな、かっこええなと思って、わたしもそれっぽく真似してきれいだと思うものをとって、祖母や母に比べる対象として渡すのですが、わたしのものよりも自分で選んだものをカゴに入れることが多かった気がしています。ごくたまに採用された。

本の中では、日本人は、「きれい」という言葉で、真善美というものをはかってあらわしているとのことでした。嘘偽りのない真実、悪意のない善良なこと、美しいことを「きれい」という言葉を使うという、日本人の心と、日本語の言葉の奥深さを感じました。少し誇らしく思えました。

また、いいものを作ろうと狙うのではなく、庶民が淡々と作ることを繰り返す中で、美がうまれるということも述べられていました。我が我がではなく、味付け忘れてもどうぞ食べる人のご自由にクリエーションしなさいだったり、今年の気候による素材の出来のせいにするだったり、味噌は人間の手の届かないところで作られているからまずくなりようがないなど、自分ではないところで料理になっているということが自由だなぁと思いました。ポテトサラダはケーキミックスのように混ぜすぎない、ムラがあったほうがいいという感覚も、日本人でよかったなぁと思いました。しかもそれ、歴史的にも、生活の知恵としても根拠もありました。昔の人、かしこい。めっちゃわかっとる。

また、料理を続けてきている人たちにしか分からない感覚があるのだと気がつきました。説明書には明記されていない、続けることでみえてくるものがあるということは、その感覚的な感覚を五感を使っていくことで見つけられるのは喜びだと思いました。誇りだと思いました。それは、便利になる反面、そぎ落とされてきている日本人の感覚でもあるのですね。
味噌汁を飲めばなぜかほっとするように、久しぶりに野菜を切るとする野菜のにおい、ガスコンロをつけたらわずかにするガスのにおい、部屋に充満する米が炊けたにおいなど、生きていることを実感する、それは実家の安心に包まれたにおいでもあるように思いました。しかしながらここまで書いといて、今のわたしはごはん作るほどのキャパはゼロなんですが。笑 お茶は毎朝しっかり入れるけど。笑 でも、料理をつくることに対してのハードル下がる、肩の荷がおりる、祖母の言動を思い出して、そのころの言動を改めて考え直すことのできる、深く優しい本でした。

ほかの本も土井先生、気になるので買ってみました。中島さんの本は読みかけを気がつけば持っていたのでまた気が向いたら読みなおします。
最近は、食材の写真を見ると元気になることに気がつきました。『暮しの手帖』とかおもしろい。食材や料理の写真、混ざってなくて、色が濃くて、純度が高いものだからなのかしら。知らんけど。

と、その周辺に纏わり付くモノたちへ

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