「色、地味!」
土曜日。ばあちゃんの家で昼ごはんを食べて少し経ってから、車で弟と書道教室に連れて行ってもらう。
「あんたら今日、こってりしごかれたんやなぁ」
帰宅後に、ばあちゃん家で寝っ転がったままの母に言われる夕方。テレビでは相撲の中継。もうお母さん、観てないんやろ。
その書道教室は、じいちゃんの従兄弟の奥さんがしているかなにかで、じいちゃんの親元の家から150mくらいの距離にある。以前、母も通っていたその教室に、わたしたちはじいちゃんのベージュのワゴンRで向かう。
国道から山の方へ右折。「ほんま、ここで車とすれ違いたくないわ」と母なら言うだろう、細く緩い坂道を50mほど上る。急に走らせるからなのか、ウィイーンキュイイーンというエンジン音が聞こえて、身体が強引に前屈みになる。その後、ブレーキを踏むからなのか、後ろに少し身体が引っ張られる。「ちょっと、やっぱり、(車に)酔ってるわ」と思っていると、水路に沿った教室のある通りに出る。左折。
車酔いも自覚しながら、満腹で、「やっぱり来る道中、車に乗った時点で、目ぇ閉じて、寝とけばよかったわ」と思う。少しまぶたが重い中、窓を開ける。車の中の染みついたタバコの匂いと暖房の生ぬるい空気から、外の冷たい新鮮な空気が入ってくる。車窓に顎をのせたまま、流れていく家をぼーっと眺めていると、このままこうしてずっと過ごしていたいなと思う。もう習い事が始まってしまうのかという面倒くさい気持ちもある。
その通りを走ること3分もせずに、玄関よりも大きい、パネルが設置された家の前に到着する。教室の生徒の作品が15点ほど展示されているそのパネルは、年1回、年が変わると変更される。ここの作品は、夜でも、そこに設置された蛍光灯の灯りに照らされている。今年もわたしも弟も、書いた字が展示してもらえたけれど、それは知り合いだからなのだろうか。
パネルの前にも水路が通っており、玄関に面して、どの家もだがコンクリートの橋のようなものがかかっている。水路は、小学生が寝転べるほどの幅があり、身体はすっぽり入ってしまうほどの深さがある。水深は、脚のくるぶしくらいまでなのだが、日があまり入らないのだろう。その底には藻が生えていて、水の流れに沿ってゆらゆらと揺れている。入ってすぐの頃、教室に来ている子の自転車の鍵がなくなることが多発した。そして、それは頻繁にその水路から見つかっていて、「誰ですか!そんな面白くないことするのは!」と、習字の先生は怒っていた。
教室の玄関の扉をゆっくり横に開ける。目の前に、急な木造の階段が現れる。そしてお店ではない、自宅特有のにおいがする。下駄箱には見慣れた靴が入っていて、今日はうるさい日なのか、穏やかな日なのか、はたまた新しい人が来ているのかがなんとなく検討がついたりする。
日が照っている昼過ぎ、日がなかなか入ってこないその玄関は、外から入ると一気に暗く感じる。階段を上ると教室なのだけれども、すぐにはやりたくないわ、どうせ書き始めてもすぐには終わらんやろなと思って、その階段の奥に目をやる。廊下の端に置いてある開けたままの段ボール、襖の障子ごしに部屋から漏れてきているテレビの音、その蛍光灯の灯りから、今にも部屋から人が出てきそうな感じがする。
今のとこ別に誰も見てないんやし、バレんやろうと、生活をより覗いてみようと、足をこっそり進めようとする。あの段ボールの端を少しめくって、中を覗きたいだけ。そして、それが何やったかを、お母さんに言ったり、弟ともう一回思い出してにやにやしたりしたいだけ。
そんなことを思っているうちに、2階の教室からどたどたと音をたてながら、先生が降りてくる。
「はい!こんにちは〜」声をかけられる。「なかなか上がってこんなと思ってましたわ〜」と付け加えられながら、今来たばかりです、何も興味ないです、ただ靴下に何か刺さっとるんかなと思ってましてと、首をかしげながら、手すりを持って真っ直ぐ2階へトントンと、上がっていく。
「1人でこんな子らぁ、1日に20人も相手にしとって、気ぃ狂わんのやろか?」
「ちゃんと集中して、書かん子もおるやろ?そういう時に、『漫画一回読んできな』ってうまいこと休憩させて、気持ちをコントロールして。気ぃ長なかったら、絶対無理やん!絶対、イライラするわ!」ばあちゃんは言う。
初めてきた生徒の、習字セットの中身を説明する時、
「これはもう使いません。筆が痛むので絶対につけません!」と先生は、筆についたプラスチックのキャップを外す。
「でも、指につけて『鬼ババア〜!』と遊ぶことはできます」と、先生は毎回言う。
豪快に玄関を開けなくても、おおらかで、優しい先生の、危機管理能力のような瞬発力から、恐怖を感じた。
今週も無事に書き上げて、習字の時間が終わる。
教室で各々が使っている墨のにおい。教室の床と壁一面に張られている、墨を飛び散らかした時に対処しやすいビニールのにおい。それらのにおいを、業務用の強すぎる暖房の風を通して、身にまとい続けた中、備え付けの公衆電話でダイヤルを回して迎えを呼ぶ。
そして、ようやく教室から出ようと引き戸を開ける。
階段を下りていくとき、醤油とみりんなのだろうか?あまいにおいがする。「また、このにおいか!」と思う。たまに先生が、1階に下りてからまた戻ってくるときに、同じにおいがしたり、なかなかいいものが書けず、早くに帰るのを諦めて夕方になる時は、このにおいが階段の上から下まで立ち込めていたりする。
「用があるんや」と迎えにきてくれたじいちゃんが、今日は車から下りて玄関まで入ってきていた。1階の人に用があるようだ。
後を追って、一緒に襖が障子の部屋へ入る。そこには、習字の先生の旦那さんがいた。じいちゃんは腰を下ろす前に、立ったままでポケットから箱を手渡す。「あっ!ありがとう〜」探していた電球があったのだろう。じいちゃんが、家に余っていたものを持ってきていたのだった。用事とは、これだったようだ。
コタツの端に弟と2人、ちょこんと座らせてもらう。電球を渡してから、沈黙もある中で、ぽつりぽつりとじいちゃんたちは話している。
そんな中、「できたてですけど、食べてみます?」と声をかけられ、小皿を渡される。「こんなのしかないですけど」と菜箸も手渡され、そおっとかじってみる。
今までの、においから想像していた通りの、あまく、でも少し中が硬い、里芋の煮っ転がしだった。字を書き上げるのに長く時間がかかったので、もう空腹になっていた。思ったよりも勢いよく食べたのだろう。ふふっと笑われた。半分に切られた大きめの里芋を、2つ食べさせてもらった。
噛むとほくほくとしていて、想像通りにあまい、その里芋。
「煮物って、美味しいんやなぁ」と思った。空腹だから勢いよく食べたけれど、内弁慶なので、「味、どう?おいしい?」に対して、うなづくだけになってしまった。
今のわたしには受け付けない、絶望的な、煮物料理もある。
冬。2月半ばのこと。週末。
ばあちゃんの家に行ったときに出くわした煮物だ。
「もうあそこまでの心配はいらんな」と、雪かきのために、早く起きる日々が一旦、落ち着いたとき、久しぶりに日が差してくるような晴れた日があったり、雨がザーザー降ってくる日があったりする。
ザーザーと雨が降っていた日だった。
「これで雪も溶けるわ。そんなにもう気温も低くないやろ。今晩は凍てることもないわ」と父が言いながら、会社へ行った。
「買い物行くけど、あんたどうする?」母に聞かれて、わたしは、ばあちゃん家に行くことにした。
昼ごはんを終えてから、母の運転で、ばあちゃんの家に向かう。ザーザー降りの中、「めっちゃ降っとるから、このまま家の前で下ろして、すぐ行くな」と母が言い、玄関に車を横付けしてもらう。車のドアを開ける。入ってくる雨の量をなるべく減らそうと、早く、強くドアを閉めようとする。半ドアにならんように。その間にも細長く、斜めに降る雨は車の中に入っていく。扉を閉めて2、3歩、素早く玄関に行く。母を見送る。
玄関を開けると、厨房にばあちゃんが立っていた。
「いらっしゃいませ〜」
わたしが来たと分かっていて、よそ行きの高い声でばあちゃんは言う。
「えっ、なんの匂い?」
ばあちゃんが何かをぐつぐつ煮ていたのだろう。煮物特有の、少し湿度のあるもわっとしたにおいのついた空気が部屋中、充満している。換気扇はついている。
厨房には大きな鍋がある。カウンター越しで確かめる分には、何を煮ていたのかは分からない。ただ、「くつ下かなんか煮とるん?」と言いたくなるようなにおいが、部屋に充満している。野菜を一種類だけ煮るのではそうならないような、何かを入れたから発酵しているのか、なんとも言えないにおいになっている。
そして、玄関入ってすぐの大テーブルには、青い透明のナイロンに白いドット模様が入った風呂敷が置かれている。そして、その隣にお重が置かれている。
「こないだな、玄関入ったとこに日本酒置いてってくれとったから。これが冷めたら、それに入れて、持ってこぉと思て」
「旧正月って知っとる?」ばあちゃんは言う。
それは、あの里芋の煮っ転がしのように、醤油とみりんの甘い、ガツンとくるような、わたしの食欲をそそるにおいではなかった。そのにおいから想像して、きっと、ダシとか何かで煮込んでいるタイプのものなのだろう。でも、絶対、なんか、一癖あるんよな。においからして!おでんみたいに、からしと一緒に食べたら美味しくなるんやろうか。それやったらわたしは、食べんやろうな!と思う。
丹精を込めて作ったその何かを、ばあちゃんは、プラスチックのタッパーではなくて、ちゃんとしたお重に詰めていく。そして、人に渡す。どんなに美味しいものなのだろう。
「はい!じゃあ、とりあえず!家に入ってきたから、手洗いうがいしておいで!」
面倒くさいなぁと思いながら、うやむやにしていると、ギャンギャン言い続けられそうなので、どたどた走って、ひんやりしている奥の部屋を通りすぎ、洗面所で手洗いうがいをして、走って、さっきいたところへ戻る。そして、そこからばあちゃんの仕込んでいる鍋を確かめに、厨房へまわり込む。
「そおっと開けてよ!水滴入るから!」ばあちゃんに見張られながら、そおっと鍋の蓋を持ち、開ける。
「色、地味!」
と思ったのが、最初の印象だった。
本当に、これを長い時間、大事に煮込んできたのかと、一瞬混乱する。
鍋の中には、大根とちくわと括った昆布、そして肉が入っていた。においから想像してた通り、やっぱりわたしが食べようと思う感じのやつじゃないなと思った。
「これ、なんの肉?」
「鳥!鳥の手羽先やで!」ばあちゃんは、自慢げに言う。
へーと思いながら、わたしは長い間、鍋の蓋を持ったまま眺めている。
ばあちゃんは、わたしが食べたいのではないかと思ったのだろう。
「ちょっと味見する?」と言い、
「これが食べたい!」とわたしは肉を指差し、味噌汁を味見する時みたいに小皿に、肉の端切れを入れてもらう。
「なんやこれ。硬い!」
骨が付いている肉だった。母が鶏肉が嫌いだからか、それは家では食べたことのないタイプの肉だ。骨まで一緒に煮込んだ方が、味が沁みるらしい。
今まで食べてきた肉のように、調理してからその肉をタレにつけて食べる訳でもなかった。だから、この煮込んでいるだけのものを「美味しい!もっと食べたい!」とは思わなかった。大人はこれを食べるんやなぁと思った。においから想像した味とは違った。肉を食べる限り、いつも食べている肉と比較すると、ぱっとしない味だった。
「なんや。こんなものか」と思い、厨房を離れる。そして、しばらく茶の間でごろごろテレビを見ていると、じいちゃんが帰ってきた。
いつの間にか、そのお重の1段には、その煮しめがぎっしり入っていた。残りの1段には、一口大に切られた魚と乱切りされた大根を、米つぶみたいなベトっとしたドレッシング状のもので和えたものがぎっしり入っていた。
「なんなんこれ!くっさ!!」と言ってしまうほど、さっきの煮物より、もっとにおいがきつい。酸っぱいにおいがして、べとっとしている。しかも、魚が混ざっている。
「にしんのすしやで!においするやろから、ラップで1回、くるっと包んでから、ここに入れとるんやで」
「ほら、ちゃんと。鷹の爪も見栄え、ええように入れとくわ!きれいやろ」ばあちゃんは自慢げに言う。
「ラップ1枚はさんだだけで、どうにかなるもんちゃうと思うんやけどなぁ。そういうこと言うとるんとちゃうんやけどなぁ」と思う。
ばあちゃんは内側が紅色のお重に、「もう少し入るわ」と、ぎっちりと、目いっぱい追加で詰めていく。
「これ、絶対、汁漏れしたらやばいやん!絶対くさいで!」と思うお重を完成させた。
「そおっとな!斜めにして、いざらんように!」と大きな声で見守られながら、お重をビニールの風呂敷の上にのせる。
そして、「ここはするわ!」と、ばあちゃんが言い、対角線上同士の風呂敷の隅を、そおっと真ん中に持っていき、きつく結んでいく。
ベージュのワゴンRに乗って、じいちゃんの運転で、ばあちゃんと、まだザーザー斜めに降り続ける雨の中、ばあちゃんの知り合いの人のアパートまで、橋を一本渡って向かう。
汁がこぼれないように、青色のビニール風呂敷に包まれたお重は、ばあちゃんの膝の上に乗っている。
ばあちゃんのビニール傘に一緒に入り、車までささっと行って、「ほな、あと閉じといて〜」と言われる。ワンプッシュで開かない旧式の傘を閉じるのを任される時、指をはさみそうでいつも怖い。ばあちゃん家のビニール傘は、恐るおそる閉じていっても、いつも途中で急に、勢いよく閉まる。気をつけていても、3回に1回は指をはさんで血を出した。
車では吉幾三の「雪國」がかかっていた。
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