急いでお湯を沸かし、お茶を作り、顔を洗いと同時進行に、滞りなく進んだのにもかかわらず、気がつけば家を出る10分前。でもYouTubeの音楽が、気がつけば「yurinasia」ではないところまでやってきていて、聞きたい曲まで選んだりしている。そして、そこからより急いで着替えたりするものの、気がつけば10分オーバー。最後にカバンにスマホを入れるが、一応スマホのボタンを押して時間を確認する。急いでいたものの、だいたい予想していた時間であり、むしろ定刻であり、焦りよりは、「あっそうだよな」と妙に冷静になっている。しかしながら、“ふわっ”と穏やかに時間が表示されるまでの、あの「間」は、体感としては妙に長い。息は止まっていると思う。そこからアパートのドアを勢いよく開けて、鍵をかける。カバンを何個も持ち過ぎて、鍵のキーホルダーと腕とカバンが絡まったりする。車に乗ったあとも、だいたい同じことになるのだろうなぁと思う。
ここ数日、ドアを勢いよく開けたものの、その瞬間に入ってくる外の空気の温度が全然ちがう。そのあとに春の匂いもする。草や土の湿ったにおい。肥料のにおい。太陽の照り方も違う。少し運転しただけで、身体の内に熱がこもっている感じがする。家に戻れば、身体中ベタベタする。うそやん、そこまで暑かったんかと思う。つい数日前まで、こんなことがあるものかと、絶望するほどの冷えを感じていたのに。そしてその時は、暖かくなったら、汗をかくのだという(寒いときより一層)当たり前のことをすっかりさっぱり忘れているのだった。
ネットで、「駅にあるピアノで威風堂々を弾いていたら、近くにいる人も歌ってくれた」みたいな動画をたまたま見た。そういう一体感というか、空気感がわたしはすきだ。以前このブログにも貼った、表現さんの「旅人たちの祝日」や、ドラマ「カルテット」でも同様にたのしい気分になる。コブクロの、ゲリラアコースティックライブ(確か、「桜木町」とか)も思い出す。そして、そのような、巻き込んで時を同じくして、その場を共有できる表現に、ずっと憧れつづけている気がする。(でも、それは裏を返せば、誰にも賛同されないときには、全身でそれを受け止めることにもなりそうだ。軸が必要なのかなぁと思う。)すごい。去年買った西山勲さんの写真集『Secret Rituals』も、なんでいいのか言葉に出来なかったのだけど、同じようにその場にいる人やその場に誰もいなくても一人でも、ふとしたタイミングに、“何かをしたくなってしたのだという態度”や“自然体の誰もが共有できるようななんでもない自分の時間”みたいなときのものが映し出されていて、嬉しい空気感が漂っているように思った。スタッフが楽器を弾いていたり、出番の合間に水辺ではしゃいだり、ギターと共に電車で移動したり。
嬉しくなって買ったはずなのに、それ以来、久しぶりに写真集を開いたのだった。
写真集を開く前、YouTubeで「威風堂々を演奏しているオーケストラ」から、のだめカンタービレを思い出し、「交響曲第七番」から、「ラプソディー・イン・ブルー」に行きついた。のだめカンタービレは、中学帰りに1時間に2本の電車を待つのも「誰と?」とか思ったりする中、こっそり駅とは別方向のおばあちゃんの家に帰るのが当たり前だった頃(しかも水泳は慢性的な腰痛によりドクターストップ中)、テレビの夕方の再放送でドラマを見ていた。のだめの秘めている才能と、オーケストラ組んだり、曲や曲の背景と解釈(千秋先輩が説明してくれる)、留学や、そこからの葛藤とか、濃いキャラ(豪華だったキャストたちだと今思う)とか、珍しく死なない・戦闘しないタイプのものにハマったなぁと思います。漫画も全巻よく買ったなぁと思う。(引っ越す際に、ちゃんと今の家に持ってきてる。)いろんないらんことまで思い出す、のだめカンタービレだけれども、それ以上にこの演奏がとてもよくて、今日(もう昨日)ずっとリピートしている。そして、気がつけば、洗濯機回しながら、音楽聞きながら、寝落ちしていた昼前の話。そして思った。わたし、歌のない音楽、気がつけば夏から全く聞けてなかったので、自然と聞けて心底うれしかった。
どうにもならない気持ちを穏やかに落ち着かせてくれていた音楽が(仕事始めていろんなジャンルに手を出すこともできたのに)、なぜ聞けなくなったのかは多分、自分の感情(特に負の大きめのエネルギーのもの)を押し消すために、ガンガンに聞いていた時期があったからというのが一つあるのかなぁと思う。別の要因もありそうですが。手当たり次第、音楽漁っていくことはまだ難しそうだけれども、ひとまず一つ、久しぶりに心がおどるものを見つけられたので嬉しかったという話。
0コメント